坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 4月 27, 2006

共に生きること

「イスラエルのすべての人々は、エタニムの月、すなわち第七の新月の祭りに、ソロモン王のもとに集まった。」「こうして、イスラエルの長老全員が到着したところで、祭司たちは箱をにない」(列王記第一8:2~3)

おはようございます。今朝もキリストの愛が私たちに迫る一日になるよう祈ります。

今朝は、とうとう「主の契約の箱」が神殿に納められる、という箇所です。主の栄光が主の宮に満ちた、とあります(11節)。被造物である人間の中に、創造主である神が臨在される、という考えられない恵みです。しかも、新約時代に生きる私たちには、一人一人が「生ける神の宮」であるのです。

もっとすごく、もっと考えられないことです(ああ、ボキャブラリーの無いことを恥じます)。

今朝その恵みは、ある特定の個人に与えられたのでなく、イスラエルの全ての民が参加し、その主の契約の箱が運ばれるのを共にになったことを黙想しました。これって、イスラエルの全ての民にとって参加したくてしょうがいないことだったのでないでしょうか。このような光栄ある働きに一緒に行きたい、という思いであったのでないでしょうか。主の契約の箱を担げるのは祭司であり、主の宮の器具を運ぶのはレビ人たちでした。そこで光栄ある、大切な働きをするのは神に選ばれた祭司やレビ人でしたが、共に長老もイスラエルの人すべてが共にこの働きに加わりました。そこには、自分の栄光などという功名心や、働きや人との比較などと言うことはありませんでした。

ただ、主の栄光のみが主の宮に満ちたのです。人の栄光ではなく。

ここに美しいキリスト共同体の姿があります。共に生きること、特に奉仕をするときに、時に難しさがあります。はっきり言って、一人でするほうが楽な時があります。一緒に奉仕すると人格が現れます。面倒くさいことがあります(私には。皆さんはそうでないかもしれないですが)。

しかし、キリスト教信仰の特徴は共同体信仰です。一人でする信仰でないのです。共に生きる信仰です。ここ最近、私には人間関係のストレスがありました。ちょっと寝にくいぐらいの状況です。いろいろしないで、無難なことをして、言ってればいいのかな?と思いました。でも、神様に押し出されて歩むことや、言動をためらわないことを覚えました。関係を持たねば、失敗も無いですが、愛することも、愛されることもありえない、ことを覚えました。

共に生きる生活をしていきます。