「神様の願われる礼拝者とは」
「彼は、以上のように、十個の台を作った。それらは全部、同じ鋳方、同じ寸法、同じ形であった。」(列王記第一7:37)
おはようございます。今朝も主イエスの愛に心が満たされる日になることを祈ります。
今朝のQTはいかがでしたか?神殿の器具についての記述でしたが、「これが一日のスタートの御言葉」であることに、ここからどう恵みがあるのか、心配になった方はいないでしょうか。また、下手をするとそのまま流して一日が終わる可能性もないでしょうか。無理だ、ここからはわからない、と思うことがあるかもしれません。私もそういうことが多くありました。ですから、今日はいつもより心して御言葉に取り組みました。いつもが手抜きでないですが。
今日、私に与えられたのは「礼拝の姿勢」でした。この器具を作るのに、どれほどソロモンや人々はベストを尽くし、神経を注いだか、と思いました。それが喜びで、聖なる負担感を持ったのでないか、と思います。つい最近も、どこかの古墳の復興作業で「かび」が生えた、という話を聞きました。その原因は作業をする人々が決められた雑菌の入らない服を着ないといけないのに、2つの作業をするために着替えなかったということが原因だそうです。
そうすると、自分は毎日のQTで細心を尽くして、神様のお声を聞こうとしているか、と思いました。この器具のサイズなど適当に読んでいないか、と思いました。そこでもう一度ゆっくり読みながら、その器具の絵を描いてイメージをしました。すると、また神様の恵みが与えられてきました(リビングライフの冒頭には器具の絵があります)。私のこのQTの時間の姿勢はどうだろうか、聖書を細心を尽くして読んでいるか、そして新約聖書時代に生きる私の体を生ける神の宮として、よく管理しているだろうか、と思いました。私の聴く音楽や、見るものは神の喜ばれるものだろうか、また、私のスケジュール管理は?
一番感じたのは、寝る時間はどうか、睡眠時間のことです。神の喜ばれる時間管理をします。神の時間管理を持って生きます。私の体を生きた供え物として受け入れてくださる主イエスの十字架を賛美します。
写真は、高松にある栗林公園です。高松藩の殿様の楽しむ庭でとても綺麗でした。特に、感嘆したのは、この地点から美しくなるという視点の庭でなく、どこを歩いての視点も美しいところでした。江戸から来た殿様が楽しむ場所だったのだと思いましたが、私たちの礼拝は、人の楽しむ庭でもこのような神経を使うのだから、これ以上の霊的礼拝であることを信じます。
おはようございます。今朝も主イエスの愛に心が満たされる日になることを祈ります。
今朝のQTはいかがでしたか?神殿の器具についての記述でしたが、「これが一日のスタートの御言葉」であることに、ここからどう恵みがあるのか、心配になった方はいないでしょうか。また、下手をするとそのまま流して一日が終わる可能性もないでしょうか。無理だ、ここからはわからない、と思うことがあるかもしれません。私もそういうことが多くありました。ですから、今日はいつもより心して御言葉に取り組みました。いつもが手抜きでないですが。
今日、私に与えられたのは「礼拝の姿勢」でした。この器具を作るのに、どれほどソロモンや人々はベストを尽くし、神経を注いだか、と思いました。それが喜びで、聖なる負担感を持ったのでないか、と思います。つい最近も、どこかの古墳の復興作業で「かび」が生えた、という話を聞きました。その原因は作業をする人々が決められた雑菌の入らない服を着ないといけないのに、2つの作業をするために着替えなかったということが原因だそうです。
そうすると、自分は毎日のQTで細心を尽くして、神様のお声を聞こうとしているか、と思いました。この器具のサイズなど適当に読んでいないか、と思いました。そこでもう一度ゆっくり読みながら、その器具の絵を描いてイメージをしました。すると、また神様の恵みが与えられてきました(リビングライフの冒頭には器具の絵があります)。私のこのQTの時間の姿勢はどうだろうか、聖書を細心を尽くして読んでいるか、そして新約聖書時代に生きる私の体を生ける神の宮として、よく管理しているだろうか、と思いました。私の聴く音楽や、見るものは神の喜ばれるものだろうか、また、私のスケジュール管理は?
一番感じたのは、寝る時間はどうか、睡眠時間のことです。神の喜ばれる時間管理をします。神の時間管理を持って生きます。私の体を生きた供え物として受け入れてくださる主イエスの十字架を賛美します。
写真は、高松にある栗林公園です。高松藩の殿様の楽しむ庭でとても綺麗でした。特に、感嘆したのは、この地点から美しくなるという視点の庭でなく、どこを歩いての視点も美しいところでした。江戸から来た殿様が楽しむ場所だったのだと思いましたが、私たちの礼拝は、人の楽しむ庭でもこのような神経を使うのだから、これ以上の霊的礼拝であることを信じます。
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