どのようにして、神様に栄光を帰すのか?
神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え」(5節)
「善悪を判断してあなたの民を裁くために聞き分ける心をしもべにお与えください」(9節)
この願い事は主の御心にかなった(10節)
私たちの願い事は、何でしょうか?祈りの課題は何でしょうか?それは、具体的である必要があります。神様との生きた交わりがあってこそ、神様の御心がわかり、それを求めることができるのでないでしょうか。しかし、私を含め「祈り」が概念的であったり、具体的でないことがあるのでいないでしょうか。それか逆に、あまりに具体的なこちら側人間だけの叫びのようなことで終わることが無いでしょうか。私には最近、後半のようなことが多くあります。
ソロモン王が、主を愛し、ささげものをささげた後に、主が夜、夢の中に現れる形をとって下さいます。そこで、神は「願い」をソロモン王に聞かれたのです。全能全知である神は、ソロモンの心をご存知です。しかし、あえてソロモンに尋ねられたのです。神はソロモンとの人格的な交わりを、対話を望まれたのです。これこそが、祈りの大きな祝福でないでしょうか。さて、ソロモンの願ったことは「自分の敵が滅びる」ことでも、「豊かになる」ことでも、「長寿」を求めることでもありませんでした。しかも、ソロモン王は自分のことを「私は小さい子供で、出入りするすべを知りません」と告白するのです。ソロモン王が果たして、本当に子供でしょうか。人の目から見れば、優秀な後継者であったし、神様を愛していた人でした。しかし、彼は神様の前に自分がどのような人間であるのか、姿を知っていたわけです。それは、自己卑下でもなく、正しく自己像をソロモンは見ていたのです。自分にとって本当に必要なことや、ものが何か、王として(公人)として必要なものをソロモンは求めました。
ここに、ソロモンの生き方の優先順位を見ることができます。それは、どのようにして神様に栄光を帰すのか、どのようにして神様を愛するのか、喜んでいただけるのか、ということが一番だったのです。自分の日常の必要や、財産を第一としたのでありませんでした。イスラエルの民に仕えることを通して、神に栄光を帰す生き方を選びました。それに対して、神は知恵とダビデの王座、そして「ソロモンの願わなかった」ことまで(富と誉れ)与えられました。
私に与えられた恵みは、「生き方の優先順位を正しくつかむなら、その全てがついてくる」ということでした。復唱してみました。「生き方の優先順位を正しくつかむなら、その全てがついてくる!!!」ソロモンは、まさに生き方の知恵を持っている人でした。神を第一とするなら、その人生が祝福されることを知っていた人だったのです。私の人生は果たしてどうだろうか?と思いました。知恵の無い人生を送っているな、と思わざるを得ませんでした。こうすると落ち込んでしまいますが、それより必要なことは「神様の前に自分が知恵の無い子供で、出入りすることを知りません」と告白すること、そして神の知恵を求めることです。知識のある人はいます。しかし、その知識をどのように正しく使うことができるのか、はその人によります。それこそ、神様の与える悟り、知恵の部分です。それは、神様との交わりの中で与えられます。
今朝は、QTが朝できませんでした。日曜日の朝は意外と教職者にとっては忙しく、難しいです。気ぜわしく、落ち着いてできないことがあります。日曜日の朝の礼拝は幼稚園で仮会堂で行いました(でも、立派な会堂が幼稚園にはあります。昔いた尾張小牧での開拓教会に比べたら~すごく恵まれています)。この日は駐車場の案内や準備で、礼拝にほとんど出れませんでした。献金の時間には入れましたが。別に不平や不満は全くありませんがが、朝にQTをしてスタートしていたら、これ以上に喜びに満たされて(あふれて)いたはずなのに、ということを終わってQTしながら、悔い改めました。
逆境の中でも、難しい中でも、神の御声を聞き、歩む人は力を得ます。喜びを得ます。心の傷がいやされます。まず一日のスタートが神様にひざまづくことのできることでスタートするようにします。ソロモンのように「生き方の優先順位を正しくつかむ」ことのできるように祈ります。
「善悪を判断してあなたの民を裁くために聞き分ける心をしもべにお与えください」(9節)
この願い事は主の御心にかなった(10節)
私たちの願い事は、何でしょうか?祈りの課題は何でしょうか?それは、具体的である必要があります。神様との生きた交わりがあってこそ、神様の御心がわかり、それを求めることができるのでないでしょうか。しかし、私を含め「祈り」が概念的であったり、具体的でないことがあるのでいないでしょうか。それか逆に、あまりに具体的なこちら側人間だけの叫びのようなことで終わることが無いでしょうか。私には最近、後半のようなことが多くあります。
ソロモン王が、主を愛し、ささげものをささげた後に、主が夜、夢の中に現れる形をとって下さいます。そこで、神は「願い」をソロモン王に聞かれたのです。全能全知である神は、ソロモンの心をご存知です。しかし、あえてソロモンに尋ねられたのです。神はソロモンとの人格的な交わりを、対話を望まれたのです。これこそが、祈りの大きな祝福でないでしょうか。さて、ソロモンの願ったことは「自分の敵が滅びる」ことでも、「豊かになる」ことでも、「長寿」を求めることでもありませんでした。しかも、ソロモン王は自分のことを「私は小さい子供で、出入りするすべを知りません」と告白するのです。ソロモン王が果たして、本当に子供でしょうか。人の目から見れば、優秀な後継者であったし、神様を愛していた人でした。しかし、彼は神様の前に自分がどのような人間であるのか、姿を知っていたわけです。それは、自己卑下でもなく、正しく自己像をソロモンは見ていたのです。自分にとって本当に必要なことや、ものが何か、王として(公人)として必要なものをソロモンは求めました。
ここに、ソロモンの生き方の優先順位を見ることができます。それは、どのようにして神様に栄光を帰すのか、どのようにして神様を愛するのか、喜んでいただけるのか、ということが一番だったのです。自分の日常の必要や、財産を第一としたのでありませんでした。イスラエルの民に仕えることを通して、神に栄光を帰す生き方を選びました。それに対して、神は知恵とダビデの王座、そして「ソロモンの願わなかった」ことまで(富と誉れ)与えられました。
私に与えられた恵みは、「生き方の優先順位を正しくつかむなら、その全てがついてくる」ということでした。復唱してみました。「生き方の優先順位を正しくつかむなら、その全てがついてくる!!!」ソロモンは、まさに生き方の知恵を持っている人でした。神を第一とするなら、その人生が祝福されることを知っていた人だったのです。私の人生は果たしてどうだろうか?と思いました。知恵の無い人生を送っているな、と思わざるを得ませんでした。こうすると落ち込んでしまいますが、それより必要なことは「神様の前に自分が知恵の無い子供で、出入りすることを知りません」と告白すること、そして神の知恵を求めることです。知識のある人はいます。しかし、その知識をどのように正しく使うことができるのか、はその人によります。それこそ、神様の与える悟り、知恵の部分です。それは、神様との交わりの中で与えられます。
今朝は、QTが朝できませんでした。日曜日の朝は意外と教職者にとっては忙しく、難しいです。気ぜわしく、落ち着いてできないことがあります。日曜日の朝の礼拝は幼稚園で仮会堂で行いました(でも、立派な会堂が幼稚園にはあります。昔いた尾張小牧での開拓教会に比べたら~すごく恵まれています)。この日は駐車場の案内や準備で、礼拝にほとんど出れませんでした。献金の時間には入れましたが。別に不平や不満は全くありませんがが、朝にQTをしてスタートしていたら、これ以上に喜びに満たされて(あふれて)いたはずなのに、ということを終わってQTしながら、悔い改めました。
逆境の中でも、難しい中でも、神の御声を聞き、歩む人は力を得ます。喜びを得ます。心の傷がいやされます。まず一日のスタートが神様にひざまづくことのできることでスタートするようにします。ソロモンのように「生き方の優先順位を正しくつかむ」ことのできるように祈ります。
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