坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 4月 19, 2006

神様の下さった恵みのクライマックス

Ⅰ列王記4章20-21節
ユダ と イスラエル の 人口は, 海辺の砂のように 多くなり, 彼らは飮み食いして楽しんでいた。 ソロモンは, 大河からペリシテ人の地, さらには,エジプトの國境に至るすべての王國を支配した. これらの王國は, ソロモンの一生の間みつぎものを持って来て、彼に仕えた。

おはようございます。とうとう、教会の仮事務所にもインターネットが接続できました。ふー感謝です。なんかほっとしたような感じです。

さて、今朝のQTです。何か、私たちクリスチャンは(いや、一部の方だけかも、もしかして私だけ?)貧しいイコール清い、というイメージが無いでしょうか。何かクリスチャンは貧しくて、教会の使っているものや教会の出てくるものは、この世より劣る、それで良しとしている様な風潮が無いでしょうか?(雰囲気でしょうか)。そうやって、今朝のQTを見ると、なんか恵が来ないような、いや自分と違う世界のような気がしないでしょうか。それも、内容はソロモン王の一日の食事量や領地の最大の拡大や、武器などが記されています。しかし、これらはソロモン王への神からの祝福であり、ダビデ王に対して与えられた約束の成就でもありました。もっと言うとアブラハムに対して与えられた約束の成就です(創世記13章)。

今朝、私に与えられた悟りは「貧しいイコール清い」ということは、下手をすると「すごく外見の形」にこだわることであり、日本人的な宗教観にしばられるような危険がある、ということでした。人は、自分の罪から逃れるために、すごく行動の宗教的な面に走るか、逆に反抗するのか、どちらかでないか、と思いました。ちょっと考えすぎですかね?もちろん、貧しいときには誘惑は少ないかも知れません。しかし、貧しくても、与えられても満ち足りる敬虔こそ、本当のことでないでしょうか。

さて、QTです。貧乏イコール必ずしも清いでなく、神様の下さった祝福に、時に冨や健康に感謝できること、逆に、それらが無くても感謝できる信仰が大切でないか、と思いました。じゃ、自分に与えられているものに感謝して、管理することは何だろうかと思いました。自分の父や、祖父からの恵、育ってくるまでの多くの方々、日本の教会の教職者の方々、サラン教会、オンヌリ教会をはじめとする韓国の教職者、神学大学院の韓国人の伝道師たち、恵を思い返しました。そして何よりも御子イエス・キリストを下さった父なる神様の愛、無限の価値のつけられない祝福を受けて、どのように管理するべきなのか、と思いました。(私にはとても直接的な示しがありました。すごく今自分のいる状況にぴったりの御言葉です)

私の人生や時間、お金は神様のものです。それを適当に怠惰に管理したりしてはいけない、と思いました。よく管理します。また、それを神様のために使いなさい、という時に喜んで使えるように(献金や人のために)、生きれるようにしてください。どうぞ、神の祝福に喜んで大きく、ささげるように北野実の信仰の地境を広げてください。