坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 4月 09, 2006

整理されるべき負の遺産

「それから、王は祭司エブヤタルに言った。アナトテの自分の地所に帰りなさい。あなたはしに値する者であるが、きょうは、あなたを殺さない。あなたは私の父ダビデの前で神である主の箱をかつぎ、父といつも苦しみを共にしたからだ」(Ⅰ列王記2:26)

「こうして、ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から罷免した。シロでエリの家族について語られた主の言葉はこうして成就した」(Ⅰ列王記2:27)

今日も、主イエスの愛と義が示される一日になることを祈ります。ソロモン王について列王記は、その前途多難だった王位継承からスタートし、そしてこの2章では難しい残務整理を記しています。ソロモン王は、決して楽な世代交代をした二代目でありませんでした。難しい兄との戦い、神様の擁立による王位継承と、そしてダビデ王からの神様の道を歩むことの遺言をもらい、今日の神様にある祝福された人間関係についてのダビデからの遺言に従った人事があります。今日の聖書箇所の人事は本当に難しい箇所で無いでしょうか?父親のダビデにさえできなかった、手のつけれなかったことです。

今朝、私に与えられた恵みは、神はすぐにでなくても罪をいつの日か必ず裁きをくだされること。罪はよいことをしたからプラスマイナスゼロの世界でないこと。ダビデの裁けなかったことをソロモンを通して神様は裁かれたこと。これを考える時に、今が明らかにされなければと思い、犯す罪や過ちがどれほどあることでしょうか。それは、神を畏れずに人の目を恐れる生き方です。自分にとって毎日のスケジュール管理が本当に難しいことを覚えます。教職者にとって自分を治めること、管理することが非常に難しいです。また、目の前にある問題にすぐにばれないから、この時間帯を過ぎれば、もう大丈夫と思う問題。それは、目に見えぬところで裁かれる神を見上げるかどうかの、現実世界にありながらも霊的な視野を持つ生き方です。

自分のしたことへの責任と神様への悔い改め。そして主イエスが私をゆるされたことの感謝と賛美です。どれほど、今の世の生き方が自分のしたことに責任をとらない生き方でしょうか。それは、クリスチャンにも、私にもあることです。責任あるクリスチャンとして生きることは、本当に難しいことで、ある意味、この世からもクリスチャンからも迫害される生き方でないでしょうか。キリストは私の罪の責任をとってくださったのです。その愛に感謝し、賛美し、生きます。クリスチャンがなぜ、世の光、地の塩なのか、思います。責任をとることを知っている人生を歩みませてください。

そして自分の利益中心の人間関係の作り方、維持することをやめることです。ソロモン王にとって、二代目の王として「死に値するヱブヤタル」を殺さず、また逆に「主の祭司」から罷免することは絶対に楽なことではなかったはずです。自分にとって感情の整理のつかないことがありました。実際にどうのこうの問題があるわけでなかったのですが、心は明らかに縛られることがありました。しかし、神様の御旨にある人間関係を持っていきます。

主イエスの道にある祝福が与えられることを祈りつつ。