坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 3月 11, 2006

イエスの無限の仕える姿から

イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい」ヨハネの福音書21章12節

お久しぶりのQTの分かち合いです。QTをしてなかったのでなく、教会の引越し準備があり、インターネットがしばらく使えませんでした(あ、落ち着いて出来ないこともありました)。ごめんなさい。

QTの箇所は、イエスが、「三度イエスを否認し、神様の奉仕にも出れず、中途半端に魚を獲りに言ったペテロ」を回復される箇所でした。

この魚を獲りに行く弟子たちに、大漁を奇跡を通して恵まれ、再び献身と導かれたイエスの姿はルカの福音書5章1-11節にも以前にもあった姿です。この時も、イエスに弟子として召され1年以上も共に奉仕しながらも、イエスが説教しているのに、横で網を洗っていた弟子の姿がありました。魚を獲りながらこの世の生活を第一にして、神の国の福音を伝えることに第一として生きれずにいる姿えした。そして、イエスの復活の後も「イエスを否認したことから立ち直れずに、魚を獲りに行く姿がありました」。

別に魚を獲りにいくのが悪いわけでありませんが。はっきりしない中途半端な姿がありました。そして、挫折したペテロや弟子たちの姿があったわけです。

ここで、魚が大量に獲れた奇跡とイエスが獲れた魚を料理するために、炭火とパンを準備されたことがあります。神様の子であるイエスが奇跡だけでなく、弟子たちのために炭火とパンを直接用意された姿があります。普通、奇跡を起こし、中途半端な弟子たちを回復にこられたのであるイエスに仕える事が弟子たちの普通の姿でないでしょうか。と言うか、人間としてのあり方でないか、とさえも思うのですが。はたして、イエスの仕える姿はどこまで無限なのか、と思いました。

イエスの仕える姿

①イエスはペテロや弟子たちを回復さるために訪問してくださった。
②イエスは魚を獲らせる奇跡をされた
③イエスの魚の奇跡は1度だけでなく、再びされた(普通、何度もできない)
④炭火を起こされた。パンも用意された
⑤食事をすすめる声を自ら先にかけられた
⑥わたしを愛しますか、と聞かれた。

イエスは、裏切ったペテロのためにすでに十字架で死なれました。その愛は当然言えるべき自分の権利を主張せずに、他人のする前にまず自分が先に仕える姿でした。

① 自分にとって、ここまで人に仕えたのだからここからは自分がしなくていいだろう、と思うことがどれほどあることだろうか。
② 自分が、自分にとって一生懸命仕えた人に失礼なことや、傷つけられることがあって仕えることが、それ以上に仕えることができないことがどんなにあるだろうか。
③ 仕える姿の基準はイエス・キリストにある(うわーきつい)。私でない。
④ ペテロは許され、回復したときに、もっとイエスに仕える弟子となった。

まことの弟子として生きれる、仕えれる人になるように祈ります。この日は、訪問や奉仕などありましたが、一つ神様がハードルを越えさせてくださったように感じます。

しもべとして生きられた主イエス・キリストを賛美します。