坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 2月 11, 2006

何故、祈らないのか?

ヨハネの福音書11章31-44節より

「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします」41節後半

久しぶりにQTの分かち合いをします。しばらく、インターネットが使えない状況でいました。

今朝のQTはラザロを復活させられる主イエスの箇所です。そこでは、ラザロの死に悲しむ人々、そして主イエスがラザロの死の前にいてくださったなら、という嘆きと絶望を持つ人々がいます。そして、恨みがたく主イエスへ「あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」言う者(37節)もいました。ここでは、神を理解していない、主イエスの働きや力を限定させた言葉や不満があります。私にとっても、どれほどこのような生き方や、働きが多いことかと思います。

しかし、主イエスの祈りはこうでした「わたしはあなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをおつかわしになったことを信じるようになるために、こう申したのです」42節

主イエスは

神様が祈りに応えてくださる方であること
神様が祈りに応えられる全能の方であること
神様が私たちが祈る前から祈りの内容をご存知な全知の方であること

を確信して、感謝して祈られました(42節)

私たちは、何故祈りが足らないのか、何故祈ってから時間がたつと弱いのか、何故祈らないのか、考えました。

①神の力を限定しているからか?
②神様を一部しか信じていないのか?そんなはずはない、と思いつつ
③自分の力や世に頼るから
④神様の力を見てないから、神様の栄光を見ていないから

それは、御言葉と聖霊様による力を体験していないからだ、と思いました。私には少し長めに祈っている祈祷題があります。そこに、主の御心だと思いつつ、現実には応えが相変わらず違うような気がして、落胆しているような、現実にどうすればいいのだ、ということがあります。しかし、今朝もう一度、ラザロを復活させた全能の神様に祈りました。祈りに応えてくださる方を賛美し、生きていきます。

主よ、祈りの答えを与えてください。従います。あなたの最善をなしてください。