「忠実な3勇士」の姿から
15節:「ダビデはしきりに望んで言った。だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたならなあ」
16節:「すると三人の勇士たちは、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持ってきた」
今朝は日曜日、少しせわしい朝のQTをしようとしていました。そして、昨日から続くこの「ダビデの勇士」の内容。ううーん。今日は一体何を神様は語られるのか、という思いました。単なる武勇伝でないし。そしてこの日曜日の朝に心の落ち着きがありませんでした。今日の礼拝後のスケジュールである訪問は大丈夫か、青年のメンバーの状態はどうだろうか?という別の心配と、それを教会の行事をこなすような、心のなさと湧き出てこない感じが少しありました。
そこに、QTとして来たのは「ダビデのベツレヘムの門の井戸の水が飲みたい」という願い。そのために、この3勇士は命をかてて危険な目にあって水を取ってくる。私は思いました。あ、ダビデがそんな無茶をしきりに言わなければ、この3勇士を危ない目に合わせずにすむのに。しかし、私に今日示されたことは「3勇士が自らこれをしたいと思ってしたということ」でした。とってこいと命令されずとも、自ら進んで「主人の喜ぶこと、願い」を果たした「3人の忠実な勇士たち」の姿。それは、主人のために命をかけた姿でした。それは、献身の姿でした。数日前に参加したセミナーの牧師先生の言葉が思い出されました。「命をかけていない牧会は遊びだ」という言葉でした。
ああ、「わずかこんなことに思えても、命をかける牧会だ」人に言われて献身しているのでなく、神様に呼ばれて何も出来ないけど、自ら喜んでささげたはずだ、それを受けてくださる神様に感謝と喜びと讃美をささげずにいれない。「神様へのささげる祈りを持ってもう一度今日をスタート」しました。
①:朝のCS成人クラスの学びが、聖霊様の自由によって奉仕できました 信仰の大先輩の方ばかりのクラスですが(ほとんどお祖母ちゃんと呼ばれる方々)。 いつもなら、人を意識するのですが。
②:訪問は本当に良かったです。 教会の礼拝に体の不自由のために来られない方と短く礼拝をささげました。
③:青年の皆さんにとって一緒に仕える素晴らしい時間になったのでないでしょうか。
こうして、ともに奉仕すること、愛を持って仕えると恵まれますね。主イエスのみなを讃美します。
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