「わずかでも祈る」
今日の与えられた恵は「わずかでも祈る」ことから始めることでした。祈りをもって仕えることは、聖徒を立てあげるのに必要不可欠なことです。しかし、今日のQTをしながら私の反応は、素通りをしようとしていました。自分の行動や、自分が奉仕において準備することに集中しようとしていました(それは、青年の聖書の学びや、とても大切な伝道の働きである①幼稚園のお母さんの聖書研究ままた、②幼稚園の先生への霊的な養いであり、ノンクリスチャンへの先生への福音の場である「教師デボーション」でした)。ですから、QTの時間に別の教理的なことや、恵を求めていたわけです。
しかし、私の働きに「祈り」が少ないこと、神様の力がわずかにしか臨んでいないことを感じました。それは、自分が神様の力を受けずに奉仕していることでありました。聖霊に満たされて奉仕してない、ことでした。もちろん、まったく祈ってないわけでないのですが。しかし、その聖徒のために、伝道する魂のために、切なる祈りはなされていない状態でした。QTのセミナーをソウルで受けた時に、「始めの祈りが大切」であること、それは、自分の願いどおりでなく、「神様の御心のままに」という献身の祈りが勝負であることを聞きました。
しかし、この日のQTは「自分の考えと願いにとらわれて」QTに入って、そして、そのまま終わってしまったのです。今日の午後の時間に、奉仕の準備をしていたら「具体的な準備」が出来なくなって、祈りました。自分自身の力のなさ、祈りのなさに、失望する時間でした。もう、祈るしかありませんでした。自分の力や準備だけでは、何もできない、人の心は動かない、ことを思いました。聖霊様が働いてくださらなくては、密室での祈り無しには、その魂へのとりなしの祈り無しには、何も起こらない。長い時間祈れたわけでありませんが、結局「準備のための時間」をほとんど「祈り、賛美し」と時間を使う、ささげることになってしまいました。しかし、そこには神様の力が私に、そして奉仕する場に臨みました。人が心を開いて話してくれるのを感じました。自分の中に迷いが無く、語るべきことがあふれること、時間まで守って話すことができました。わざかでも祈ることからはじめます。
神の力が私に、兄弟姉妹に、まだ神様を知らない人に必要だからです。
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