坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 11月 15, 2005

「神様の召しにふさわしい生き方」

第一サムエル19:35B-37節

今日のQTの箇所には「80歳のバルジライ」と「キムハム」という人が登場します。ダビデがマハナイムにいる間、王を養う富んだ者であり、年をとっていた、とあります。そこで、王は恩に報いようと「一緒にエルサレムにてあなたを養いたい」33節。言います。

35節「私は今、80歳です~中略」37節「このしもべを帰らせてください。私は自分の町で私の父と母の墓の近くで死にたいのです。しかしここに、あなたのしもべキムハムがおります。彼が王様といっしょに渡ってまいります。どうか、彼にあなたが良いと思われることをなさってください」

私にとって非常に大切な御言葉が与えられました。バルジライは「80歳」という年齢と「自分の町」にという言葉をダビデに話しました。それは、神様の召しにふさわしく生きる人生でした。年をとってダビデにささえられることは、どれほど、安心なことだったでしょうか?私の奉仕する教会には多くの年を召された方がいます。その多くは不安をかかえてられます。健康、さびしさ、そして生活上の問題などです。人生の後半部においてささえらえる保障は大きなものでないでしょうか。しかし、バルジライは自分の町に残り、キムハムを推薦しました。神様の召しにふさわしく自分のするべきことをする、それに徹したのです。また、神様の私に対する人生の計画には「年齢」に応じた時期があります。今すべきこと、しないでいいこと、将来すべきこと、見極めないといけません。

私は現在、35歳という年齢の中で何をすべきか、自分のいるべきところ、するべきことは何であるのか?決断するべきであることを祈りました。「神様、あなたの召しにふさわしく、その時にふさわしく生きさせてください」人の目でなく、判断によらず、環境に左右されるのでなく、「神様がいまわたしをこうおかれること、すべきことを確信して、自分の今起こっていることや、場所を解説するべきである」ということが示されました。

今日も、神様の召しにふさわしく生きる喜びに満たされる日になりことを信じて。