坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 8月 27, 2010

まことのPRIDEは謙遜さをもたらす

エレミヤ48;26-35
モアブの高ぶりに、神様からの裁きがくだります。高ぶりとはなんでしょうか?それは、神様の主権を認めないことです。自分で出来る、自分の能力で出来る、自分の能力でと考えることです。本当の正しいプライドを持つと、謙遜になります。それは、神様の愛から来るものです。十字架による愛から来るのです。また、それは正しい方向、正しい考えを持って人生を生きます。キリストの愛によって生きるために、排他的ではありません。間違っている人のためにとりなしの祈りをします。わたしは神様の愛、十字架で命を捨てる愛なしには、生きていけないからです。恵みなしに生きていけない存在であるからです。そして、それは弱いものでなくてキリストの愛ゆえに強いものであります。正しい方向へ導かれている、神様に従うところから来る強さです。キリストの愛によって歩んで生きます。

ラベル:

木曜日, 8月 26, 2010

安楽が霊的な堕落につながっていないか?

エレミヤ48;11-25
モアブの人たちは、安楽な人生を揺るがない人生を生きているように思えました。しかし、それは神様とはなれた罪による安楽でした。それは、自分だけの喜びに生きて、神様と隣人とはなれて、罪からの堕落をもって来ました。それは、いつか必ずさばかれるものです。それは自分が見ても、他人が見てもさばかれないように見えても、必ず神様からの裁きが来るものです。わたしの基礎は、どこにあるでしょうか?神様にあるでしょうか?霊的な怠惰に陥っていないでしょうか?また、怠惰でなくても、神様にある基礎を気づいているでしょうか?神様の前に緊張感を持って毎日を大事に生きているのでしょうか?神様の言葉である聖書を基礎にして、価値観として歩んで生きます。

ラベル:

水曜日, 8月 25, 2010

無駄に生きない人生とは?

エレミヤ48;1-10
人生を無駄に生きないとは、「主のみわざ」をおろそかにしないことです。神様の恵みを無視しないことです。その価値を認めること、一番大事な神様の声と救いを認めることです。それを人生の中で生きることです。神様の義と愛の中で、生きることが自分の人生を一番大事に生きることです。今日一日、神様の救いと恵みを大事にしていきます。

ラベル:

火曜日, 8月 24, 2010

安らかに生きる秘訣はキリスト

エレミヤ46;27-47;7
神様は、イスラエルの民に「捕囚」の地から、遠くから、救い出されるといわれます。主の下さったメッセージは、「おびえさせるものは誰もいない」ということです。私は神様の前に、わたしをおびえるものがいない、ということを知っているのでしょうか?神様に頼らないために、この世に頼るために、「おびえる」ことは何でしょうか?「お金、人脈、未来についての心配」でしょうか?しかし、本当の安らぎは、遠くからも、罪の捕囚からも、救い出される神様にあります。神様が下さる平安への価値や、本当の力を神様の中に見出し、認めているのでしょうか?また、神様の下さる平安を奪われずに、KEEPしているのでしょうか?キリストの平安は、自分が十字架で死ぬことです。また、自分の中に大変に生きることだけが、キリストに仕えるものだけと思っていました。しかし、主イエスにある平安に生きることを求めていきます。主よ、あなたの平安な人生を下さい。

ラベル:

月曜日, 8月 23, 2010

主のタイミングを逃すな!

エレミヤ46;13-26
エジプトについて神様は時期を逃して騒ぐものと指摘されます。神様の助けを求めずに、罪を象徴するエジプトへ頼ること、逃避をすることを主はエジプトに裁きがあることをもって示されます。神様に頼って、回復することを期待しているでしょうか?今日の礼拝は、いろいろあって多くの人がこれない状況にありました。しかし、祈る中で神様が多くの人々を送ってくださいました。逃避でなくて、神様に期待して祈っていきます。

ラベル:

日曜日, 8月 22, 2010

主だけに頼る覚悟が出来たか?

エレミヤ46;1-12イスラエルの民は、再度エジプトに逃避しようとします。それは、以前にも宗教改革をしたヨシヤ王の時代にもあり、大事な主の器であるヨシヤ王がそのために殺される事件が、損失がありました。それにも関わらず、バビロンが神様の裁きの器としてイスラエルをさばくことを預言者を通して何度も語られつつも、その実際の結果を何度も見つつも、イスラエルの民は悔い改めることをしません。そして何よりも、彼らが神様を知らない民でなくて、クリスチャンであり、一応神様の声を聞こうとしているのです。しかし、神様の声を聞いても、自分の考えや、経験が伴わないと従いません。自分にとって都合のいい言葉を聞くときは喜んでもてはやし、聞きます。はたして、わたしは神様の声を聞くときに主だけに頼り、主だけを神様とする決意が出来たのでしょうか?主は、それでも裁きを通して、イスラエルの民に語られたのです。普通ならば、言うことをしない相手なのに語ってくださったのです。主の愛に感謝します。主だけに頼ることと、そして自分の経験にそぐわなくても、従います。また、聞かない相手にも語っていきます。ハレルヤ!このアメリカで全世界で主イエスだけに頼ります。

金曜日, 8月 20, 2010

あなたの命が救われたのはイエスの命が失われたから

エレミヤ45;1-5
今日の聖書のみ言葉でバルクが、「イスラエルの回復や憐れみを求めるな」といわれます。あなたの命が救われることがあなたの報いである、とイエスは言われます。それは、イスラエルの民が裁きを受けて滅びるのに、ただ自分は救われること、それはどんな感謝と思います。その裁きを変わりに受けてくださったのは、主イエスです。バルクがいかに人格者であり、成功した指導者であるとかが、救いの動機や理由ではありません。主イエスの前にへりくだり、悔い改めて、哀歌を歌ったその魂の叫びに神さまは答え下さり、主イエスを遣わし、救いを与えてくださったのです。わたしの救いを下さった主イエスを賛美します。主イエスの前に悔い改めて、自分の罪や現状から救い出されたキリストの犠牲と愛を思い、賛美します。ハレルヤ!主イエスをあがめます。

ラベル:

神様の言葉は成就することを祝福で知るか?呪いで知るか?

エレミヤ44;20-30
わたしは、神様の言葉の成就がなされること、完全であることをしることを「神様の裁き」で知りたいでしょうか?それとも、神様の祝福で知りたいでしょうか?その鍵は、主イエスに従うこと、聞くことです。それをなしているのでしょうか?神様の全能の力を見ているのでしょうか?

主に罪を犯して、一時的な逃避をしていれば逃げおおせるとか、少しだけとか、従順を後伸ばしにしていないでしょうか?神様への従う祝福を仰ぎ見て進みます。

ラベル:

木曜日, 8月 19, 2010

同意で偶像礼拝をすることを警告しているか?

エレミヤ44;11-19
今日の聖書箇所は、どうどうと「天の女王に偶像礼拝」をして、「神様の言葉」に従わないという宣言をする人々が、出てきます。しかも、夫婦同伴で偶像礼拝をしていることを知っており、神様の前に罪を犯している、という意識も無く、自分が偶像礼拝をしている時に、「自分は大変なことがおこらず、まことの神様のを礼拝しても何も無い、また偶像礼拝をしていることへの罪意識もありません」
はたして、わたしたちの、わたしの信仰はどうでしょうか?
①日常の苦しみを助けてくれることを頼っていないでしょうか?
②その苦しみは、はたして自分の罪から、不従順からきたことを言い訳にしていないでしょうか?
また、そのような人からの言い訳や現実への言葉にだまされていないでしょうか?
③偶像礼拝や不従順の罪を悔い改めているでしょうか?それを堂々と従わずに、しかも夫婦同意のもとに行うことに神様への恐れがあるのでしょうか?
④夫の霊的なリーダーシップを覚えます。それは、妻の罪を正すことです。
神様の前に恐れ、まず私が従います。そこから、神様にあるリーダーシップがあることを信じます。

水曜日, 8月 18, 2010

神様の声を聞かぬと誰が神様の地位に行くか?

エレミヤ44;1-10
神様は、「神様の声を聞かないと滅びにいく」というメッセージを語られます。それは
①預言者を通して語られます→わたしたちは神様のしもべや忠実な、真摯な神様の人からの声やアドバイスを聞いているでしょうか?聖書からの言葉へ従っているのでしょうか?
②偶像礼拝をしているイスラエルの民は、神様に従わないときには、中間位置は無いのです。それは、実際的に偶像崇拝をすると別に、自分が神様であり、主人であることなのです。
③神様の都である、エルサレムが廃墟になる、主イエスの臨在がだめになる

火曜日, 8月 17, 2010

神様の声を聞かない人は正しい人も巻き込む

エレミヤ43;1-13
神様の声を聞かない人は、他の正しい人をも巻き込んで、そして自分のために、自分の意見のために、人を悪人に仕立てます。人を陥れます。しかし、神様の裁きや正義が変わることがありません。そして、一時的な逃亡や一時的な逃げ道を求めて、主に従う信頼や安全を知りません。そこには、混乱と悲鳴があります。見かけには安全に見えますが、最終的には神様の裁きがあります。わたしは神様の回復を願って信頼し、従うのでしょうか?主の裁きを恐れ、人を恐れず、主に従います。

ラベル:

月曜日, 8月 16, 2010

神様の声を聞くと回復がある

エレミヤ42;13-22
エジプトに逃げようとしたイスラエルの民に、神様の声に従わずに、現実的に見える、見せ掛けの平安には、剣と飢饉と、おそれが追いすがる、とい神様は言いました。また、神様の声を聞かないときには二度と回復は出来ないことを宣言されたのです。ぎゃくに、神様の声に従うときに、現実は見えなくても、難しい状況が会っても、回復があるのです。神様の回復がわたしの仲に、私の周りの人間関係に難しい人にも、神様の声を聞かない人にも、祝福があるように、神様の言葉を宣言していきます。

ラベル:

日曜日, 8月 15, 2010

主の言葉を待て!

エレミヤ
とうとう、待ちに待った主からの言葉がありました。それは、十日待つと言うタームを置いての神様からの約束、お答えでした。わたしたちは、あまりにインスタントに答えをいただく時代に生きています。結果を求めることに慣れています。そこで待つことになれずにいる時代です。しかし、本当のことは松人大意と神様への信頼を持って進まないといけません。そこに未来へのビジョンが、神様の声を聞いて生きる人の喜びがあるのです。神様の声を待つまで、神様の答えを待つまで、主に期待して歩みます。

ラベル:

土曜日, 8月 14, 2010

神様の道とすべきことを求めているか?

エレミヤ42;1-6
残された人たちは、エレミヤのところに行きます。それは、残されたものの使命として「神様の道」と「なすべきこと」を求めていった姿でした。何故、はじめから神様の声を聞かないのでしょうか?人間とは、まさに人間のわがままな姿であり、勝手で、おろかな姿です。それは、わたしの姿です。しかし、驚くべきことはそんなわたしたちを受け入れてくださり、受け入れてくださり、ゆるしてくださることです。愛してくださり、その新たな道を用意してくださることです。幸いなことは、「自分にとって良くても悪くても」神様の声に聞き従うことが「わたしたちの幸い」であることが分かったことです。そして、主イエスご自身がわたしたちの関係の証人です。これ以上確実な証人が何処にいるでしょうか?神様の言葉を実行して行います。神様の声を求めて歩みます。聖書をもっとむさぼるように読みます。

神の声を聞かないと良い事をしても途中で不安になる

エレミヤ41;11-18
イシュマエルを倒したヨハナンと将校たちでしたが、彼らは多くの人々から喜ばれ、歓迎され、期待されたにもかかわらず、エジプトに逃げようとしました。さいしょは、良い働きをしたのに何故でしょうか?何故、どうどうと最初から最後まで行動できないのでしょうか?それは、
①目的意識が無いからです。ただ単に敵を倒すだけなら、もっと難しい状況が来ます。神様の声を聞いて、神様の指導者をたてようというものがないと続きません。
②神様に呼ばれて行動しているなら、そのゴールを持って行動します。ただ単に、人を倒す倒さないなら、復讐を生むだけのクーデターになってしまいます。
③神様の声を聞いて行動をスタートするのか?神様の声を聞き続けて行動するのかが、周りへの大きな影響を生みます。リーダーの必須条件です。神様の声を聞き続けます。QTの時間をもう一度、立て直します。リーダーとして、毎日QTする喜びを伝えます。

木曜日, 8月 12, 2010

憎しみや私心が動機か?愛が動機の指導者か?

エレミヤ40;13-41-10
ユダの残された指導者であったゲダルヤでしたが、イシュマエルの暗殺計画により、殺されてしまいます。それは、暗殺計画があるにもかかわらず、その助言をくれた人を信じなかったのです。回復のために備えをし、神様の民を立てなおうそうとした人も、霊的な緊張感やわずかな隙から神様のプロジェクトを成し遂げることなく、殺されたしまったのです。この世の中には、何故?ということがあります。大切な指導者を失うこともあります。わたしにとって、分からないこともあります。しかし、今日の暗殺をおこしたイシュマエルは彼の動機は、神様からの指名でもなく、民への愛でもなくて、ビジョンでもなくて、人への嫉妬や、怒り、復讐からでした。それは必ず、滅びるときが来ます。自分の思い上がりが生んだ共同体への、神様への殺人事件であり、罪でした。わたしの動機はどうでしょうか?また、主の働きを完成させるために霊的な緊張感を持っているのでしょうか?神様への恐れを持っている指導者でしょうか?また、神様へのビジョンをもって大胆に奉仕しているのでしょうか?主の臨在の仲で奉仕します。

水曜日, 8月 11, 2010

苦しくてもいるべき所にいる人が指導者だ!

エレミヤ40;1-12エレミヤは、自分が神様の預言を正しく伝え、それを人々が聞き従わなかったために、このような結果になったことを人々も敵さえも認めました。いくらでも、自分が正しかったことを人々に言い返すことや、自分の気持ちさえも晴らすことも出来たのに、今日の指導者であるエレミヤや、ゲダルヤはバビロンに行くのか?と聞かれてユダに残りました。それは、自分の満足を求めることでなくて、自分がやはり正しかったという主張をするためでもなくて、神様の民と苦しむことと、ともにいることを選びました。私はいるべきこところにいるのでしょうか?神様の民と今日いるべきところでた戦います。主イエスのしもべとして仕えます。不足なわたしを用いてください。

火曜日, 8月 10, 2010

信頼する人は誰か?

エレミヤ39;11-18神様の裁きの日に、苦難の日に「しかし」という例外の人がいます。奇跡を体験する人がいます。それは、誰でしょうか?神様を信頼する人です!、今、わたしの人生には恐れがあります。待ち受ける問題があります。すぐに解けない問題があります。しかし、大事なのはどれほど大きな苦難があるのかでなくて、どれほど大きな神様を信じ、大きな恵みを受けているのか?です。神様を信頼しているのでしょうか?神様の前に、信頼することが勝利であり、わたしと神様の関係がそうであることを信じます。主イエスの勝利を宣言します。

ラベル:

日曜日, 8月 08, 2010

人生の座標は、神様に従うこと

エレミヤ38;20-28ゼデキヤ王に、エレミヤは「神様に従うことが幸福である、あなたはいのちが助かること」ことを伝えます。それは、エレミヤの勧めでした。しかし、その大事な勧めも彼は拒否をします。苦しい時にさえも、神様の声を拒否し、回りへの面子も会って、秘密会議しにしてしまったのです。神様の前に素直になる勇気、人の前に素直にならないと、命が助からない場面で意地を張ってしまったのです。私たちの人生の座標は、イエス・キリストの愛に従うこと、それがわたしの人生の座標です。何を決めるか、何を基準にするのか?神様の愛に従います。また、何よりもリーダーが従うことが、周りへの大きな影響力をもたらします。神様に従う牧会と奉仕と人生を行きます

ラベル:

土曜日, 8月 07, 2010

苦しいのに真理を聞かない人

エレミヤ38;14-19
ゼデキヤ王は、苦しい状況になり、悩んで、とうとうエレミヤを呼び出しました。それは、何とか助かりたい、という思いでした。しかし、エレミヤが言うように「真理を」提示されると、拒否する態度と変化への拒否する態度を示します。わたしの態度は、どうでしょうか?真理を受け入れ、従う姿勢を持っているのでしょうか?また、真理を受け入れない人への態度はどうでしょうか?大胆に言うべきことや、自分を守るべきことはしているのでしょうか?神様の真理に従い、神様の奇跡を体験していく信仰を祈ります。

ラベル:

金曜日, 8月 06, 2010

世の強者を辱める弱いもの

エレミヤ38;1-13
エレミヤが殺されそうになったときに、彼を周りからのプレッシャーをも押しのけて勇気を持て助けたのは宦官でした。私は正しいことをすべきことを、言うべきことを言っているのでしょうか?勇気を持って行うべきことは何でしょうか?神様の言葉を勇気を持って語っているでしょうか?自分が損になっても、神様の人を助けているのでしょうか?弱いものを用いてくださる主イエスを信じます。

ラベル:

真理を語るためには、神様の声を聞け!

エレミヤ37;11-21
真理を語るエレミヤに、大きな攻撃や人々から「誤解」や「偽者呼ばわり」されたり、痛みがあります。それでも、真理を語れる理由は何でしょうか?真理を語り続ける力は何処から来るのでしょうか?主イエスを見上げるときです。主イエスの声を聞き、力を受けるときです。神様の声を聞いていきます。神様の声を聞いて従い、歩みます。

ラベル:

日曜日, 8月 01, 2010

エレミヤ36;1-10
エレミヤは閉じ込められて、代わりに巻物に書き、バルクに読んで民たちに宣言させました。今日、神様のみ言葉をそのまま宣言し、忠実に宣言していきます。大胆に、私の人生を変えていく、いかれた主イエスのみ言葉を宣言します。

ラベル: