坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 1月 02, 2008

無限の挑戦を選ぶ人生には

最後に, 私の 兄弟たち. 主にあって 喜びなさい. 前と同じことを書きますが,これは,私には煩わしいことではなく,あなたがたの安全のためにもなることです. どうか 犬に 氣をつけてください. 惡い働き人に 氣をつけてください. 肉體だけの 割禮の 者に 氣をつけてください. 神の御によって 禮拜をし, キリスト · イエス を 誇り, 人間的なものを 賴みにしない 私たちのほうこそ,割礼の者なのです. しかし, 私にとって 得であったこのようなものをみな, 私は キリスト のゆえに, 損と 思うようになりました. それどころか, 私の 主である キリスト · イエス を 知っていることのすばらしさのゆえに, いっさいのことを 損と 思っています. 私は キリスト のためにすべてのものを 捨てて, それらをちりあくたと 思っています. それは, 私には, キリスト を 得, また, キリスト の 中にある 者と 認められ, 律法による 自分の 義ではなくて, キリスト を 信じる 信仰による義,すなわち, 信仰に 基づいて, 神から 與えられる 義を 持つことができる, という 望みがあるからです. (ピリピ人の手紙3章1-4,7-9)
私にとって安全な道、行動とは何でしょうか。今朝の御言葉を読んだときに、考えさせられた御言葉は「主にあって喜ぶ」ことは、あなたがたの「安全」であるということでした。神様に会って喜ぶ人はチャンスをいただくということでした。本当の働き人と外見だけの宗教人の違いは何でしょうか。 それは、心に喜びの無い人が(キリストにある喜びの無い)外見だけの宗教人です。逆に、なぜ喜べるのでしょうか。状況的に喜べない状況もあるでしょう。それは、たとえ状況が喜べない状況であっても、「神様に愛されている人生」を喜ぶこと、「信仰によって生きる人生」「目に見えるものだけに頼らない人生」「きよく生きる人生」「この世と違う基準で生きる人生」「神様に祈りを聞かれることで神様とコミュニュケーション」を持つ人生です。 それは、救いを自分の行いで生きているのでなく、神様による信仰を持って救いを得る人生、 自分の努力に限定されない、無条件の挑戦をえるのです。
私の人生は、外見の行い、人間的な条件や、地位に頼る人生でなく、神様にある喜びの中にある無限の挑戦を選んで行きます。