坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 1月 10, 2008

栄光の系譜に入っている

教えを始められたとき、イエスはおよそ30歳で、人々からヨセフの子と思われていた。エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である(ルカの福音書3章23,38節)
系譜がなぜ、ルカの福音書に書かれているのか黙想しました。そして、マタイの福音書と違う系譜の書かれ方がしているのが、何故か黙想しました。系譜は関係の無い人や、興味の無い人には何の意味も無い、感動も無いものです。ルーツと関係の無い人には文字に近いでしょう。ルカの福音書はテオピロに向けて最初は書かれました。ですから、異邦人であるテオピロにはマタイの福音書にある系譜と違う系譜が紹介されたのです。それは、ヨセフの子でなく、神様の子であるイエスの系譜でした。それは、アダムは神の子である、という系譜でした。この系譜はどういう意味があるのでしょうか。それは、神が人を作られたこと、またカインの系図でなく、セツの系図を神様の祝福の後継者とされ、ヤコブ、イサク、アブラハムの神であること、そして異邦人の神であることを示されたのです。テオピロにとって関係の無い系譜でなく、自分のルーツである系譜であること、イエス・キリストの十字架によって、この栄光あふれる神様の系譜に加えられていることがわかれるのです。自分のご先祖様が祝福の系譜や、栄光あふれる家門であるならば、どうでしょうか。クリスチャンはこのような栄光の系図の中にいるのです。韓国には本郷という自分の家系図があります。そこで、自分のご先祖はここから来たというのです、自分のルーツであり、栄光の下であり、神様の家族とされたことに感謝と、栄光あるクリスチャンとしてアイデンティをもって行きます。

水曜日, 1月 09, 2008

生き方の原理を変えるとは

そのことは預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。(ルカの福音書3章4節) 生き方の原理を変える原点は、何でしょうか。それは、神様の言葉を基礎とすることです。そこに、生き方の原理が変わる祝福があります。洗礼のヨハネの活動は、ヨルダン川のすべてのほとり地方を中心にし、そこから全世界へと福音が伝えられていきました。明らかに宣教方策があったのです。
また、下着を分かち合えととあります。人は所有することを願います。しかし、本当に所有すべきは神様の愛を、神様ご自身を持つべきことなのです。そこに、真の豊かさと幸福があります。そこに、分かち合う幸福が始まります。それは、神様の御言葉を基礎として歩む価値観が、原理があるのです。 今朝は、久しぶりに日本で早朝祈祷会に出ました。日本では、難しい、あまりない早朝祈祷会でしたが、すごく恵まれました。信仰がなければ、早朝に起きて祈ることや、信仰持っていても早朝に祈ることを進めない人もいるかもしれません。でも、神様のみ言葉が私を目覚めさせ、導かれる原理があります。生き方の原理をかえる御言葉に従います。

集中した人生を生きよ

その後やもめになり、84歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えた(ルカの福音書2章37節)女預言者であるアンナは、神様の宮を離れず、夜も昼も仕えたとあります。それは、あれもこれもせずに、神様のために「断食と祈り」で集中して仕えていました。人生の働きをうまくできないことや、才能がありながらも、失敗を重ねるのは、時に集中していないからでないでしょうか。自分は、どれほど神様のために集中しているのか、と思うとあれもこれも散漫だったり、他に楽しみがあったり、ということを覚えました。アンナの信仰の特徴は神様に感謝する人生でした。 また、彼女は若いときだけが素晴らしい人であったのでなく、年老いてからさらにクライマックスを迎えたのでした。自分はどうでしょうか。そのような老後を迎えれるでしょうか。そして、アンナは神様の宮でイエスを待っていたのでした。そういう人は救いと待ち望み、救いを伝えます。
私にとって、心が傷むQTでした。集中した人生を生きます。

聖霊に満たされた人生

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。(ルカの福音書2:25) 聖霊に導かれる人生ということで、友人と最近語ったことがありました。聖霊の導きを受けずに、それをすごく非常に非現実的なものとしてしまう、危険性があること。逆に、あまりに霊的な分野にしてしまう、危険性もある。しかし、今日の聖書箇所は「彼の行動が」神様の声を聞き、神様の例に感じて行動して、その結果はイエス・キリストに出会うことでした。聖霊様の働きや、声を聞くことのクライマックスや集中点がイエス・キリストにないのならば、自分にあるのならばむなしい事になります。シメオンはイエスに出会って「安らかに去ることができる」と告白します。もしも、聖霊の声を聞くことが自分の満足や中心であるならば、この言葉は出てこないことでしょう。イエスに出会ったと証したり、自慢したといけませんから。聖霊に満たされた人生は、自分中心や自己を満たすものでなく、イエス・キリスト中心の人生であり、そこで死んでも賛美と感謝があふれます。本当にこれを黙想したときに、自分はなんと自己中心なのか、がっかりさせられました。なんと自分は自由がないのだろうか。イエスによって自分の思いを明らかにされれたことを感謝し、悔い改め、イエス中心の人生と日々回復されていきます。

神様の約束に従うと

すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた (ルカの福音書1:63)
エリサベツとザカリヤは神様の約束どおりに、ヨハネと名づけようとします。神様の驚くべき奇跡と計画に従うことができず、話せなくなっていたザカリヤは子供の名前をヨハネとつけます。神様への従順と奇跡のスタートでした。神様の約束に従う告白でした。それは、人々に神様のみ技が起こることを」期待させることになりました。神様への従順は、神様の奇跡を広げます。それは、人々へ神様のみわざはの期待を起こさせます。今日、神様への従順が期待を起こす一日を生きます。

火曜日, 1月 08, 2008

脇役のクリスマス

さて、この地に羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた(ルカの福音書2:8)イエス・キリストの誕生のニュースを最初に聞いて伝え祝ったのは、この世の成功者や権力でなく王様でもなく、野宿していた羊飼いでした。以前にイスラエルに行ったときのことを思い出したのですが、羊を野で飼うことは現在も非常にはハードな仕事です。また、この世での成功者がする仕事よりも、難しい状況にある人々がすることでないか、と思いました。つまりは、イエス・キリスト以外にこの世に喜びのない人でした。そのほかの権威者たちは、それ以外のことで心がいっぱいであり、自分の権力であるとか、この世のもので。その高い心にはイエス・キリストの誕生の喜びは来なかったのです。イエス・きりストご自身が低くなってしもべとなられたのです。自分が主役の人にはイエス・キリストはこなかったのです。そういう黙想をしたときに、自分にこのような低い謙遜な心や、キリストだけを求める心があるだろうか?と思いました。キリストだけを喜ぶ人生や、キリストの誕生のニュースを聞いて探し求める心があるだろうか、と思いました。純粋にキリストこそが最高の喜びとなっているのか、考えさせられました。HOW GREAT OUR GOD神様の素晴らしさを賛美します。

金曜日, 1月 04, 2008

約束の御言葉

主によって 語られたことは 必ず 實現すると 信じきった 人は, 何と 幸いなことでしょう. 」 主は, 御腕をもって 力强いわざをなし, 心の 思いの 高ぶっている 者を 追い 散らし, 權力ある者を王位から引き降ろされます.低い者を高く引き上げ,飢えた者を良いもので滿ち足らせ,富む者を何も 持たせないで 追い 返されました. 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで, そのしもべ イスラエル をお 助けになりました. (ルカの福音書1:45,50-54) 約束の御言葉がここ最近の私のテーマであります。神様の約束の地、約束のみ言葉に従って歩む人生です。私にとって、今朝与えられた御言葉は「主によって語られた言葉は必ず実現すると信じる人はなんと幸いなことでしょう」ということです。神様の今までに私に与えられた御言葉の約束を信じることが示されました。本当に、人の心は弱く揺れ動きやすいものです。力ある神様が小さい私に大きなことをなされ、さらになされようとされていること覚えました。餓えた私に良いもので、満たされる主を賛美します。神様の約束の御言葉を握って歩んで行きます。続いて信じ、歩ます、今年一年さらに、続く未来へ歩んで行きます。

神様と共にいることの大事さ

御使いは, はいって 來ると, マリヤ に 言った. 「おめでとう, 惠まれた 方. 主があなたとともにおられます.」 (ルカの福音書1章28節) 神様の用いられる人は、どんな人でしょうか。神様の働きを、みわざをする人はどんな人でしょうか。多くのクリスチャン生活の中で「仕事」する感覚や、何かを達成するような誤解があるのでないでしょうか。しかし、神様はいきなり仕事をさせたり、何か大きなプロジェクトをさせるのでありません。それでは、下手をすると神様の働きという前に何か世の中の仕事をしているようなことに陥ります。もしくは、もっとひどいことは自分の存在証明と関わる、自分の目的達成になることさえもありうります。それは、完全に分離して分かりやすい形で無いので、難しい問題をもたらします。
神様の働きなのか、自分の野望なのか?完全に分離して純粋な思いとして見えにくいのです。
神様が用いられる人は、「神様と共にいる人」です。神様は何か教会のリバイバルや青年の働きや大学生の働きを、このようにしてください、人数が増えますように、という前に
神様と共にいて、神様の心を知る人を求められます。神様の働きをするのはそれからです。
神様の御心を求めて祈ると、先に神様はまず聖くなりなさい、とか献身することを求められます。 今日のQTでは、マリヤに向かって御使いが言った事は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」というあいさつでした。この言葉をどれほど私は喜ぶことでしょうか。 神様が共におられます、というならば「全能の神様がおられ、何でも出来ないことは無いのです」それでも、何か不足があるのでしょうか。仕事が先でなく、神様と共にいることが大事なのです。 恵みを受けたとは何でしょうか。
①一方的な神様の下さるプレゼント(人の努力や計画によらない)
②祈って、ひざをかがめ、神様に降参する人に来る
③神様のビジョンとワーシップ求める
④ありえない神様の奇跡である
これいじょうにもっと、あると思いますが。神様と共にいることを大事にします。

水曜日, 1月 02, 2008

今年の御言葉


私たちの 間ですでに 確信されている 出來事については, (V.2入 )多くの 人が 記事にまとめて 書き 上げようと, すでに 試みておりますので, 初めからの 目擊者で, みことばに 仕える 者となった 人々が, 私たちに 傳えたそのとおりを, 私も, すべてのことを 初めから 綿密に 調べておりますから, あなたのために, 順序を 立てて 書いて 差し 上げるのがよいと 思います. 尊敬する テオピロ 殿. それによって, すでに 敎えを 受けられた 事がらが 正確な 事實であることを, よくわかっていただきたいと 存じます. 彼こそ, エリヤ の と 力で 主の 前ぶれをし, 父たちの 心を 子供たちに 向けさせ, 逆らう 者を 義人の 心に 立ち 戾らせ, こうして, 整えられた 民を 主のために 用意するのです. 」 (ルカの福音書1:1-4.17) 2008年度の新しい約束の御言葉は、ルカの福音書からのメッセージでした。テオピロ閣下に伝えたルカは、はじめからの証人たち記事にまとめようとし、伝えようとしたことを書いています。証人たちがイエス・キリストを見た人たちはその福音の知らせを「だまっていられない」状態でした。また、伝えられずにいられない状態でした。そこで、ルカは尊敬するテオピロ閣下に福音書を書いたのです。 そこで、教えられたことは福音を伝えることに、
①相手を尊重したこと
②強要した福音伝道でなく、「事実であることを」知っていただきたい、
事実と知ったなら信じるであろう、という思いの中で伝道していること
③順序を立てて書いて差し上げる、とは面倒くさいことです。未信者に対して伝道するときは、他の何倍もの接続やコミュニュケーションが必要です。
④神様の計画によってルカのような伝道もあれば、バプテスマのヨハネのような伝道もあります。
神様の召しにふさわしく生きる伝道があります。
⑤働きの前に聖い、献身した生活をしないと伝道になりません。
⑥神様の召しにあって「逆らう者を擬人に立ち返らせる」働きをします。これは、反対され迫害される、拒否される、人を立ち返らせる意味をします。普通の働きでありません。
⑦聖霊の力なしには到底できません。
20008年、伝道のために苦労をします(面倒くさい伝道であっても)。神様の計画に歩む人生を歩みます。

心のままに神様のために用いる物質

ピリピ の 人たち. あなたがたも 知っているとおり, 私が 音を 宣べ 傳え 始めたころ, マケドニヤ を 離れて 行ったときには, 私の働きのために, 物をやり 取りしてくれた 敎會は, あなたがたのほかには 一つもありませんでした. テサロニケ にいたときでさえ, あなたがたは 一度ならず 二度までも 物を 送って, 私の 乏しさを 補ってくれました. 私は 贈り 物を 求めているのではありません. 私のほしいのは, あなたがたの 收支を 償わせて 余りある 的祝なのです. 私は, すべての 物を 受けて, 滿ちあふれています. エパフロデトからあなたがたの 贈り 物を 受けたので, 滿ち 足りています. それは 香ばしいかおりであって,神が喜んで受けてくださる供え 物です.また、私の神は、キリスト · イエスにあるご自身の榮光の富をもって,あなたがたの必要をすべて滿たしてくださいます. どうか,私たちの父なる神に御榮えがとこしえにありますように。ア ― メン .(ピリピ人への手紙4章14-19) まことの共同体の最終クライマックスは、「物質的なもの」を分かち合うことの素晴らしさを知ることです。愛によって、福音を伝える人をささえる喜びを持つことです。目に見えない宣教地に祈りをもってささげることです。私は、私たちはそのような関係、fellowshipを持っているでしょうか。また、逆に自分は物質を心のままに用いる、ささげる人生を生きているでしょうか。それとも、物質に縛られる人生を生きているでしょうか。霊的な祝福を得ることを求める、神様と親しい関係を持っていることでしょうか。私自身は、そのような祝福をたくさんもらってきたこと思います。でも、そのように与えるでしょうか。少しばかりはしてきた感謝がありますが、まだまだであるように思います。 この2007年度の最後の日、QTは人生の究極的な目的である「神様に栄光を返す」人生でした。 それにふさわしい関係を、fellowshiPを持っていきます。また、物質を心のままに用いる、ささげる人生を生きます。

無限の挑戦を選ぶ人生には

最後に, 私の 兄弟たち. 主にあって 喜びなさい. 前と同じことを書きますが,これは,私には煩わしいことではなく,あなたがたの安全のためにもなることです. どうか 犬に 氣をつけてください. 惡い働き人に 氣をつけてください. 肉體だけの 割禮の 者に 氣をつけてください. 神の御によって 禮拜をし, キリスト · イエス を 誇り, 人間的なものを 賴みにしない 私たちのほうこそ,割礼の者なのです. しかし, 私にとって 得であったこのようなものをみな, 私は キリスト のゆえに, 損と 思うようになりました. それどころか, 私の 主である キリスト · イエス を 知っていることのすばらしさのゆえに, いっさいのことを 損と 思っています. 私は キリスト のためにすべてのものを 捨てて, それらをちりあくたと 思っています. それは, 私には, キリスト を 得, また, キリスト の 中にある 者と 認められ, 律法による 自分の 義ではなくて, キリスト を 信じる 信仰による義,すなわち, 信仰に 基づいて, 神から 與えられる 義を 持つことができる, という 望みがあるからです. (ピリピ人の手紙3章1-4,7-9)
私にとって安全な道、行動とは何でしょうか。今朝の御言葉を読んだときに、考えさせられた御言葉は「主にあって喜ぶ」ことは、あなたがたの「安全」であるということでした。神様に会って喜ぶ人はチャンスをいただくということでした。本当の働き人と外見だけの宗教人の違いは何でしょうか。 それは、心に喜びの無い人が(キリストにある喜びの無い)外見だけの宗教人です。逆に、なぜ喜べるのでしょうか。状況的に喜べない状況もあるでしょう。それは、たとえ状況が喜べない状況であっても、「神様に愛されている人生」を喜ぶこと、「信仰によって生きる人生」「目に見えるものだけに頼らない人生」「きよく生きる人生」「この世と違う基準で生きる人生」「神様に祈りを聞かれることで神様とコミュニュケーション」を持つ人生です。 それは、救いを自分の行いで生きているのでなく、神様による信仰を持って救いを得る人生、 自分の努力に限定されない、無条件の挑戦をえるのです。
私の人生は、外見の行い、人間的な条件や、地位に頼る人生でなく、神様にある喜びの中にある無限の挑戦を選んで行きます。

神様を喜ぶ理由

しかし, 苦しみのあった所に, やみがなくなる. 先には ゼブルン の 地と ナフタリ の 地は, はずかしめを 受けたが, 後には海沿いの道, ヨルダン 川のかなた, 異邦人の ガリラヤ は 光榮を 受けた. やみの 中を 步んでいた 民は,大きな光を見た. 死の 陰の 地に 住んでいた 者たちの 上に 光が 照った. あなたはその國民をふやし, その喜びをまし加えられた. 彼らは 刈り 入れ 時に 喜ぶように, 分捕り 物を 分けるときに 樂しむように, あなたの御前で 喜んだ.
あなたが 彼の 重荷のくびきと, 肩のむち, 彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように 粉々に砕かれたからだ. (イザヤ9:1-4)

クリスマスを前にして、私の教会の前には労働者のデモが居座っていました。もともと、企業に行くべき人が私の教会に通う長老がその企業の会長であることを逆手に全く理解の出来ないデモを教会の正門の前にしていました。しかし、ここまでしないといけない彼らの気持ちは何だろうか?そんなクリスマスを迎えないといけない彼らの現状はどうだろうか?と思いました。人は、自分は自分のしたいことがあって、いきたいところがあってそれが幸福であると思います。しかし、神様の導くところに行くのが、まことの幸福です。たとえ、どこに行くのかわからなくても、何をしていいのか分からないときでも、神様の約束の御言葉があるならば安心で、勇気があるはずです。ですが、逆にイエスキリストのいないところへいき、そこで生きるなら、それは「死の影の谷を歩む」ことです。また、過去の傷や現在の傷に縛られているならば、そこがどのような場所であれ、死の影の谷を歩む人生になります。この年末、私は非常に大きな決断をしました。神様がどのように導いてくださるのか、信仰に立ちます。