神の性質と人の役割
「約束されたことを」(24節)
「父ダビデに約束さして」(25節)
「約束された」(26節)
「あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください」(列王記第一8:30)
約束とは、お互いに対等な関係があって結ばれます。条件があります。しかし、神様と私たちの契約は決して対等ではありません。創造主なる神と、被造物なる人が対等な関係であるわけがありません。ですから、この世の約束とはまったく違います。
神が約束を守られるのは、その神ご自身の性質によるのです。神は真実で、正義であられ、そして約束を守られる方です。人は(私は)、その逆です。どれほど、私たちは約束を守れずに、落ち込んだり、約束を守らずに、裏切り者のような思いをしたことでしょう。また、そのことで相手を傷つけ、困らせてきたことでしょうか。この世で生きることには難しさがあります。しかし、神は約束をご自身の性質にかけて守られる方です。私たちにすることは神を信じることです。そこから、喜んで従うことがでてきます。どうして、私はその神を信じれないのか、私はお任せできないか、それは、私は神を知らないからだ、と思いました。神がどのような方であるのか、人格を知らないからでないか、と思いました。知らないわけでないけど、まだまだ少ないのです。神との交わりがどれほど豊かで、人格的な交わりであるのか、と思います。
今朝のQTの箇所は、昨日に引き続き、ソロモン王が主の宮で「全ての栄光」を神にささげ、そして奉献と、私たちクリスチャンのささげる祈りをお聞きください、という箇所でした。聖書の内容は素晴らしすぎますよね。地の中に神がお住まいになるどころか、天の天においても、不可能なことなのに、この私たちの造った宮などに~しかし、お聞きください。
主の宮である教会もこのような場所であるはずです。
① 神の臨在→②神との出会い(御言葉、祈り)→③神の応答、神の御心の宣言どのような姿勢で、神の前に出るべきでしょうか。真摯で、なおかつ大きな喜びがあるのでないでしょうか。また、神の応答に喜んで従うのでないでしょうか。それこそ生きた礼拝者です。
私は、もうまもなくこの日本の愛媛県松山市の教会での奉仕を終えて、大韓民国のソウル市にあるサラン教会日本語礼拝部の奉仕へと向かいます。1年の契約を終えて帰りますが、心や感情は本当に寂しいです。多くの方々も心痛む手紙を下さいます。もっと居て下さい。感謝します。でも、サラン教会に行くことも私の人生のタイムスケジュールと違う思いでした。しかし、神の真実を信じ歩んでいきます。