坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 4月 29, 2006

神の性質と人の役割

「契約と愛とを守られる方」(23節)
「約束されたことを」(24節)
「父ダビデに約束さして」(25節)
「約束された」(26節)
「あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください」(列王記第一8:30)

約束とは、お互いに対等な関係があって結ばれます。条件があります。しかし、神様と私たちの契約は決して対等ではありません。創造主なる神と、被造物なる人が対等な関係であるわけがありません。ですから、この世の約束とはまったく違います。

神が約束を守られるのは、その神ご自身の性質によるのです。神は真実で、正義であられ、そして約束を守られる方です。人は(私は)、その逆です。どれほど、私たちは約束を守れずに、落ち込んだり、約束を守らずに、裏切り者のような思いをしたことでしょう。また、そのことで相手を傷つけ、困らせてきたことでしょうか。この世で生きることには難しさがあります。しかし、神は約束をご自身の性質にかけて守られる方です。私たちにすることは神を信じることです。そこから、喜んで従うことがでてきます。どうして、私はその神を信じれないのか、私はお任せできないか、それは、私は神を知らないからだ、と思いました。神がどのような方であるのか、人格を知らないからでないか、と思いました。知らないわけでないけど、まだまだ少ないのです。神との交わりがどれほど豊かで、人格的な交わりであるのか、と思います。

今朝のQTの箇所は、昨日に引き続き、ソロモン王が主の宮で「全ての栄光」を神にささげ、そして奉献と、私たちクリスチャンのささげる祈りをお聞きください、という箇所でした。聖書の内容は素晴らしすぎますよね。地の中に神がお住まいになるどころか、天の天においても、不可能なことなのに、この私たちの造った宮などに~しかし、お聞きください。

主の宮である教会もこのような場所であるはずです。

① 神の臨在→②神との出会い(御言葉、祈り)→③神の応答、神の御心の宣言どのような姿勢で、神の前に出るべきでしょうか。真摯で、なおかつ大きな喜びがあるのでないでしょうか。また、神の応答に喜んで従うのでないでしょうか。それこそ生きた礼拝者です。 

私は、もうまもなくこの日本の愛媛県松山市の教会での奉仕を終えて、大韓民国のソウル市にあるサラン教会日本語礼拝部の奉仕へと向かいます。1年の契約を終えて帰りますが、心や感情は本当に寂しいです。多くの方々も心痛む手紙を下さいます。もっと居て下さい。感謝します。でも、サラン教会に行くことも私の人生のタイムスケジュールと違う思いでした。しかし、神の真実を信じ歩んでいきます。

木曜日, 4月 27, 2006

共に生きること

「イスラエルのすべての人々は、エタニムの月、すなわち第七の新月の祭りに、ソロモン王のもとに集まった。」「こうして、イスラエルの長老全員が到着したところで、祭司たちは箱をにない」(列王記第一8:2~3)

おはようございます。今朝もキリストの愛が私たちに迫る一日になるよう祈ります。

今朝は、とうとう「主の契約の箱」が神殿に納められる、という箇所です。主の栄光が主の宮に満ちた、とあります(11節)。被造物である人間の中に、創造主である神が臨在される、という考えられない恵みです。しかも、新約時代に生きる私たちには、一人一人が「生ける神の宮」であるのです。

もっとすごく、もっと考えられないことです(ああ、ボキャブラリーの無いことを恥じます)。

今朝その恵みは、ある特定の個人に与えられたのでなく、イスラエルの全ての民が参加し、その主の契約の箱が運ばれるのを共にになったことを黙想しました。これって、イスラエルの全ての民にとって参加したくてしょうがいないことだったのでないでしょうか。このような光栄ある働きに一緒に行きたい、という思いであったのでないでしょうか。主の契約の箱を担げるのは祭司であり、主の宮の器具を運ぶのはレビ人たちでした。そこで光栄ある、大切な働きをするのは神に選ばれた祭司やレビ人でしたが、共に長老もイスラエルの人すべてが共にこの働きに加わりました。そこには、自分の栄光などという功名心や、働きや人との比較などと言うことはありませんでした。

ただ、主の栄光のみが主の宮に満ちたのです。人の栄光ではなく。

ここに美しいキリスト共同体の姿があります。共に生きること、特に奉仕をするときに、時に難しさがあります。はっきり言って、一人でするほうが楽な時があります。一緒に奉仕すると人格が現れます。面倒くさいことがあります(私には。皆さんはそうでないかもしれないですが)。

しかし、キリスト教信仰の特徴は共同体信仰です。一人でする信仰でないのです。共に生きる信仰です。ここ最近、私には人間関係のストレスがありました。ちょっと寝にくいぐらいの状況です。いろいろしないで、無難なことをして、言ってればいいのかな?と思いました。でも、神様に押し出されて歩むことや、言動をためらわないことを覚えました。関係を持たねば、失敗も無いですが、愛することも、愛されることもありえない、ことを覚えました。

共に生きる生活をしていきます。

水曜日, 4月 26, 2006

管理人として生きる


「こうして、ソロモン王が主の宮のためにしたすべての工事が完成した。そこで、ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の器具類を運び入れ、主の宮の宝物倉に納めた。」(列王記第一7:51)

今朝も、主イエスにある喜びの人生が回復できるように祈ります。昨日は、教会の家庭集会がありました。そこで、思ったことは(自分がですよ)私はできなかったことに目を留めることや心を留めることが多く、神様の下さったものを感謝をすることを忘れているな、と思いました。自ら不幸に陥れている、ということです。

神様の与えて下さったものを感謝しようと思いました。そこに幸福があります。平井家庭集会の愛する皆さん、ありがとうございます(読んでいる人いらっしゃるかな?)。昨日は、初めて来られた方と求道中の方もいらっしゃいました。感謝です。

さて、ソロモン王が主の宮に納める器具についての箇所が今朝のQTでした。そこには、ベストを尽くして神様から与えられたお金、人生、人、国の力をささげるソロモンの姿がありました。神様に与えられた環境や、賜物、時間、お金、土地など、ソロモンの場合は更に、国力をあげて主の宮を作りました。しかも、イスラエルの国力にとどまらず、イスラエルの国でできないことは外国人に力を求めて(列王記第一4:6)そして、今日の箇所ではナフタリ族のやもめの子と言うヒラムという技術者を呼び、最高の最善のものを作らせます。そして父ダビデが聖別したものを受け継ぎ、主の宮に納めました。

私たちに与えられた環境や、時間(人生そのもの)、また父や母から受け継いだもの、またお金や、土地、賜物、すべてのものを神様は、私たちに託されていることを覚えます。それを使って、ベストの素晴らしいものをつくることもできるし、そこそこのものをつくることもできます。それは、私たちに任せられています。どのような人生を作り上げるのか、託されています。

ちょっとQTしながら考えたことなんですが、私の住んでいるのは愛媛県の松山市です。その隣の香川県に日本でたぶん有名な「こんぴらさん(一応神宮ですか)」があります。江戸時代には門前町として栄えたそうです。なぜ、人々はこいうところに行くのか、心情が知りたくなりました。四国ですから、お遍路さんも多いです(しかもわりと若い人も)。大阪出身で、なおかつ韓国に7年いて、4分の一韓流かなと思う私には驚きです。そこに行った時に(偶像礼拝しに行ったのでありません)、あまりに広い敷地に歩いていて「何でこんなとこに来たのか、嫌になった」のですが、一番奥に会社や企業の奉献物や、そうした奉献したことを広告するものがありました。日本の企業や人々はこういう社会や関係に生きているんだなあ、と思いながら、帰る道々、いつの日か、日本の地に、日本の人々が「まことの神であるイエス・キリスト」に立ち返るように願いました。この道で商売してる方も「主イエスが愛されている」ことを知るように祈りました。どうか、別の商売をするまでに導かれますように。

さて、日本の地の救いのために、大望を持つことも必要だと思います。しかし、それだけでなく、一人一人のクリスチャンが神様に与えられた人生に感謝して生きる時、その人生に幸福が満ちる時に、世の人々が「あなたの持ってる幸福は何?」と思うし、聞いてくるのでないでしょうか?私の人生が自分のものでなく、神様のものであるという時に、まことの賛美が起こるのでないでしょうか。

今朝の適用:自分が自分のものである主張をおろさせてください。けちな自分が、豊かな父なる神からいただいたものを主なる神にささげれる人として新しく造り替えてください。

PSこんぴらさんは、宗教だけでなく、温泉やうどん、銘菓、食べ物、お酒、芝居小屋とすべてワンセットの旅行パックの観光地ですね。江戸時代の人は楽しみに来たんだろう、と思いました。

「神様の願われる礼拝者とは」

「彼は、以上のように、十個の台を作った。それらは全部、同じ鋳方、同じ寸法、同じ形であった。」(列王記第一7:37)

おはようございます。今朝も主イエスの愛に心が満たされる日になることを祈ります。
今朝のQTはいかがでしたか?神殿の器具についての記述でしたが、「これが一日のスタートの御言葉」であることに、ここからどう恵みがあるのか、心配になった方はいないでしょうか。また、下手をするとそのまま流して一日が終わる可能性もないでしょうか。無理だ、ここからはわからない、と思うことがあるかもしれません。私もそういうことが多くありました。ですから、今日はいつもより心して御言葉に取り組みました。いつもが手抜きでないですが。

今日、私に与えられたのは「礼拝の姿勢」でした。この器具を作るのに、どれほどソロモンや人々はベストを尽くし、神経を注いだか、と思いました。それが喜びで、聖なる負担感を持ったのでないか、と思います。つい最近も、どこかの古墳の復興作業で「かび」が生えた、という話を聞きました。その原因は作業をする人々が決められた雑菌の入らない服を着ないといけないのに、2つの作業をするために着替えなかったということが原因だそうです。

そうすると、自分は毎日のQTで細心を尽くして、神様のお声を聞こうとしているか、と思いました。この器具のサイズなど適当に読んでいないか、と思いました。そこでもう一度ゆっくり読みながら、その器具の絵を描いてイメージをしました。すると、また神様の恵みが与えられてきました(リビングライフの冒頭には器具の絵があります)。私のこのQTの時間の姿勢はどうだろうか、聖書を細心を尽くして読んでいるか、そして新約聖書時代に生きる私の体を生ける神の宮として、よく管理しているだろうか、と思いました。私の聴く音楽や、見るものは神の喜ばれるものだろうか、また、私のスケジュール管理は?
一番感じたのは、寝る時間はどうか、睡眠時間のことです。神の喜ばれる時間管理をします。神の時間管理を持って生きます。私の体を生きた供え物として受け入れてくださる主イエスの十字架を賛美します。

写真は、高松にある栗林公園です。高松藩の殿様の楽しむ庭でとても綺麗でした。特に、感嘆したのは、この地点から美しくなるという視点の庭でなく、どこを歩いての視点も美しいところでした。江戸から来た殿様が楽しむ場所だったのだと思いましたが、私たちの礼拝は、人の楽しむ庭でもこのような神経を使うのだから、これ以上の霊的礼拝であることを信じます。

水曜日, 4月 19, 2006

神様の下さった恵みのクライマックス

Ⅰ列王記4章20-21節
ユダ と イスラエル の 人口は, 海辺の砂のように 多くなり, 彼らは飮み食いして楽しんでいた。 ソロモンは, 大河からペリシテ人の地, さらには,エジプトの國境に至るすべての王國を支配した. これらの王國は, ソロモンの一生の間みつぎものを持って来て、彼に仕えた。

おはようございます。とうとう、教会の仮事務所にもインターネットが接続できました。ふー感謝です。なんかほっとしたような感じです。

さて、今朝のQTです。何か、私たちクリスチャンは(いや、一部の方だけかも、もしかして私だけ?)貧しいイコール清い、というイメージが無いでしょうか。何かクリスチャンは貧しくて、教会の使っているものや教会の出てくるものは、この世より劣る、それで良しとしている様な風潮が無いでしょうか?(雰囲気でしょうか)。そうやって、今朝のQTを見ると、なんか恵が来ないような、いや自分と違う世界のような気がしないでしょうか。それも、内容はソロモン王の一日の食事量や領地の最大の拡大や、武器などが記されています。しかし、これらはソロモン王への神からの祝福であり、ダビデ王に対して与えられた約束の成就でもありました。もっと言うとアブラハムに対して与えられた約束の成就です(創世記13章)。

今朝、私に与えられた悟りは「貧しいイコール清い」ということは、下手をすると「すごく外見の形」にこだわることであり、日本人的な宗教観にしばられるような危険がある、ということでした。人は、自分の罪から逃れるために、すごく行動の宗教的な面に走るか、逆に反抗するのか、どちらかでないか、と思いました。ちょっと考えすぎですかね?もちろん、貧しいときには誘惑は少ないかも知れません。しかし、貧しくても、与えられても満ち足りる敬虔こそ、本当のことでないでしょうか。

さて、QTです。貧乏イコール必ずしも清いでなく、神様の下さった祝福に、時に冨や健康に感謝できること、逆に、それらが無くても感謝できる信仰が大切でないか、と思いました。じゃ、自分に与えられているものに感謝して、管理することは何だろうかと思いました。自分の父や、祖父からの恵、育ってくるまでの多くの方々、日本の教会の教職者の方々、サラン教会、オンヌリ教会をはじめとする韓国の教職者、神学大学院の韓国人の伝道師たち、恵を思い返しました。そして何よりも御子イエス・キリストを下さった父なる神様の愛、無限の価値のつけられない祝福を受けて、どのように管理するべきなのか、と思いました。(私にはとても直接的な示しがありました。すごく今自分のいる状況にぴったりの御言葉です)

私の人生や時間、お金は神様のものです。それを適当に怠惰に管理したりしてはいけない、と思いました。よく管理します。また、それを神様のために使いなさい、という時に喜んで使えるように(献金や人のために)、生きれるようにしてください。どうぞ、神の祝福に喜んで大きく、ささげるように北野実の信仰の地境を広げてください。

火曜日, 4月 11, 2006

どのようにして、神様に栄光を帰すのか?

神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え」(5節)
「善悪を判断してあなたの民を裁くために聞き分ける心をしもべにお与えください」(9節)
この願い事は主の御心にかなった(10節)

私たちの願い事は、何でしょうか?祈りの課題は何でしょうか?それは、具体的である必要があります。神様との生きた交わりがあってこそ、神様の御心がわかり、それを求めることができるのでないでしょうか。しかし、私を含め「祈り」が概念的であったり、具体的でないことがあるのでいないでしょうか。それか逆に、あまりに具体的なこちら側人間だけの叫びのようなことで終わることが無いでしょうか。私には最近、後半のようなことが多くあります。  

ソロモン王が、主を愛し、ささげものをささげた後に、主が夜、夢の中に現れる形をとって下さいます。そこで、神は「願い」をソロモン王に聞かれたのです。全能全知である神は、ソロモンの心をご存知です。しかし、あえてソロモンに尋ねられたのです。神はソロモンとの人格的な交わりを、対話を望まれたのです。これこそが、祈りの大きな祝福でないでしょうか。さて、ソロモンの願ったことは「自分の敵が滅びる」ことでも、「豊かになる」ことでも、「長寿」を求めることでもありませんでした。しかも、ソロモン王は自分のことを「私は小さい子供で、出入りするすべを知りません」と告白するのです。ソロモン王が果たして、本当に子供でしょうか。人の目から見れば、優秀な後継者であったし、神様を愛していた人でした。しかし、彼は神様の前に自分がどのような人間であるのか、姿を知っていたわけです。それは、自己卑下でもなく、正しく自己像をソロモンは見ていたのです。自分にとって本当に必要なことや、ものが何か、王として(公人)として必要なものをソロモンは求めました。  

ここに、ソロモンの生き方の優先順位を見ることができます。それは、どのようにして神様に栄光を帰すのか、どのようにして神様を愛するのか、喜んでいただけるのか、ということが一番だったのです。自分の日常の必要や、財産を第一としたのでありませんでした。イスラエルの民に仕えることを通して、神に栄光を帰す生き方を選びました。それに対して、神は知恵とダビデの王座、そして「ソロモンの願わなかった」ことまで(富と誉れ)与えられました。  

私に与えられた恵みは、「生き方の優先順位を正しくつかむなら、その全てがついてくる」ということでした。復唱してみました。「生き方の優先順位を正しくつかむなら、その全てがついてくる!!!」ソロモンは、まさに生き方の知恵を持っている人でした。神を第一とするなら、その人生が祝福されることを知っていた人だったのです。私の人生は果たしてどうだろうか?と思いました。知恵の無い人生を送っているな、と思わざるを得ませんでした。こうすると落ち込んでしまいますが、それより必要なことは「神様の前に自分が知恵の無い子供で、出入りすることを知りません」と告白すること、そして神の知恵を求めることです。知識のある人はいます。しかし、その知識をどのように正しく使うことができるのか、はその人によります。それこそ、神様の与える悟り、知恵の部分です。それは、神様との交わりの中で与えられます。

今朝は、QTが朝できませんでした。日曜日の朝は意外と教職者にとっては忙しく、難しいです。気ぜわしく、落ち着いてできないことがあります。日曜日の朝の礼拝は幼稚園で仮会堂で行いました(でも、立派な会堂が幼稚園にはあります。昔いた尾張小牧での開拓教会に比べたら~すごく恵まれています)。この日は駐車場の案内や準備で、礼拝にほとんど出れませんでした。献金の時間には入れましたが。別に不平や不満は全くありませんがが、朝にQTをしてスタートしていたら、これ以上に喜びに満たされて(あふれて)いたはずなのに、ということを終わってQTしながら、悔い改めました。

逆境の中でも、難しい中でも、神の御声を聞き、歩む人は力を得ます。喜びを得ます。心の傷がいやされます。まず一日のスタートが神様にひざまづくことのできることでスタートするようにします。ソロモンのように「生き方の優先順位を正しくつかむ」ことのできるように祈ります。

日曜日, 4月 09, 2006

整理されるべき負の遺産

「それから、王は祭司エブヤタルに言った。アナトテの自分の地所に帰りなさい。あなたはしに値する者であるが、きょうは、あなたを殺さない。あなたは私の父ダビデの前で神である主の箱をかつぎ、父といつも苦しみを共にしたからだ」(Ⅰ列王記2:26)

「こうして、ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から罷免した。シロでエリの家族について語られた主の言葉はこうして成就した」(Ⅰ列王記2:27)

今日も、主イエスの愛と義が示される一日になることを祈ります。ソロモン王について列王記は、その前途多難だった王位継承からスタートし、そしてこの2章では難しい残務整理を記しています。ソロモン王は、決して楽な世代交代をした二代目でありませんでした。難しい兄との戦い、神様の擁立による王位継承と、そしてダビデ王からの神様の道を歩むことの遺言をもらい、今日の神様にある祝福された人間関係についてのダビデからの遺言に従った人事があります。今日の聖書箇所の人事は本当に難しい箇所で無いでしょうか?父親のダビデにさえできなかった、手のつけれなかったことです。

今朝、私に与えられた恵みは、神はすぐにでなくても罪をいつの日か必ず裁きをくだされること。罪はよいことをしたからプラスマイナスゼロの世界でないこと。ダビデの裁けなかったことをソロモンを通して神様は裁かれたこと。これを考える時に、今が明らかにされなければと思い、犯す罪や過ちがどれほどあることでしょうか。それは、神を畏れずに人の目を恐れる生き方です。自分にとって毎日のスケジュール管理が本当に難しいことを覚えます。教職者にとって自分を治めること、管理することが非常に難しいです。また、目の前にある問題にすぐにばれないから、この時間帯を過ぎれば、もう大丈夫と思う問題。それは、目に見えぬところで裁かれる神を見上げるかどうかの、現実世界にありながらも霊的な視野を持つ生き方です。

自分のしたことへの責任と神様への悔い改め。そして主イエスが私をゆるされたことの感謝と賛美です。どれほど、今の世の生き方が自分のしたことに責任をとらない生き方でしょうか。それは、クリスチャンにも、私にもあることです。責任あるクリスチャンとして生きることは、本当に難しいことで、ある意味、この世からもクリスチャンからも迫害される生き方でないでしょうか。キリストは私の罪の責任をとってくださったのです。その愛に感謝し、賛美し、生きます。クリスチャンがなぜ、世の光、地の塩なのか、思います。責任をとることを知っている人生を歩みませてください。

そして自分の利益中心の人間関係の作り方、維持することをやめることです。ソロモン王にとって、二代目の王として「死に値するヱブヤタル」を殺さず、また逆に「主の祭司」から罷免することは絶対に楽なことではなかったはずです。自分にとって感情の整理のつかないことがありました。実際にどうのこうの問題があるわけでなかったのですが、心は明らかに縛られることがありました。しかし、神様の御旨にある人間関係を持っていきます。

主イエスの道にある祝福が与えられることを祈りつつ。

金曜日, 4月 07, 2006

神の裁きとは?

「すると、ソロモンは言った。彼が立派な人物であれば、彼の髪の毛一本でも地に落ちることはない。しかし、彼のうちに悪があれば、彼は死ななければならない」(Ⅰ列王記1:52)

愛する皆さん、お元気ですか?今日も主の恵みと力が共にありますように。ソロモンは、自分の力で自分を王とならうとしたアドニヤへの裁きをこのように言います。理解に苦しむ場面です。神から出たことでなく、人間の欲から出た王座への奪取をしようとしたアドニヤ。ソロモンは危機一髪で王になったところです。普通、政治の敵を生かすことはありえないでしょう。また、ここでアドニヤのした行動は祭壇の角をつかんで、自分の命の延命を要求するという行為でした。

アドニヤのした行為には、

①ソロモンへの謝罪も
②神への罪の悔い改めもありませんでした。もちろん、自分のした行為への自覚さえも無かったのです。

今日、私にとって与えられた恵みの①は、「人を裁いて当然の場面」において、神のなされる裁きと神の裁きの時にお任せることです。もはや、裁かれて当然、また自分のしている行動に自覚さえも無い、と思える人がいないでしょうか。また、時に「自分の罪を悔い改めず」に、自分の行動に大義名分を持つために「祭壇の角」を持っていることが無いのか、考えさせられました。

ソロモンの答えは「彼が立派な人物であれば~」と言い、家に帰したのです。決して人間の感情の裁きでないソロモンの裁きでした。後に、ソロモンはダビデ王の残した裁かれるべき人を裁くことになり、このアドニヤのこともアドニヤ自らの犯した罪から、裁くことになります。アドニヤは、ダビデ王は「あなたはどうしてこのようなことをしたのか、といって心を痛めたことがなかった」人でした。

しかし、神様は人の見てないところで見て裁かれる方です。心の中心を見られる方です。ソロモンの言う「彼のうちに悪が無ければ」ということは後に明らかになったのです。人の目には悪が無いようでも、神様の目には罪があったのです。

今日、人の見ていないところで裁かれる神様を畏れて歩んでいきます。自分のうちにある悪を神様が聖め、新たにしてくださいますように。また、人への裁きが神様の裁きと時にお任せして生きれますように。主イエスの聖なる御名をあがめます。

土曜日, 4月 01, 2006

神を神とすること

「人は神の物を盗むことができようか」8節
「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注ぐかどうかをためしてみよ」10節

ハレルヤ!主イエスのみなを賛美します。愛する皆さん、お元気でしょうか。今日の聖書の御言葉は、私たちにどのような恵みを与えてくださったでしょうか。恵みの分かち合いをします。

私たちにとって(いや、私にとって)献金とは自分の人生の優先順位が試されるときでないでしょうか?お金の使い方は自分の生き方が示されるときです。私は十分の一献金をささげますし、礼拝の献金もささげています。でも、本当に喜んでそれ以上にささげているのか、考えさせられました。私にとって「神のものを盗む」とは、どういうことか?黙想してみました。

ささげ物とは何でしょうか?

「神の与えてくださったもの」を感謝すること

それは、お金の問題や物質のことだけでなく、自分の存在そのものです。自分の人生、健康や時間そのもの、生かされているのは、神様によることを感謝しているか、ということです。私の人生は私のものでなく、神様の与えてくださったものである、という告白です。そこに、基本的な感謝として十分の一献金があり、その他の献金やささげものがあるわけです。ささげものは、「神を神とする」人生の告白です。私の命は主よ、あなたにある、という告白です。

私にとって「神のものを盗む」とは、「自分の人生」というタイムスケジュールを自分でつかんでいる、ということでした。ここ最近、私にも教会にも大きな変化がありました。私の時間、私の人生でなく、神の与えてくださった時間、人生を大切に神様の御心のままに生きているのか、と思います。私や人間は気がつくとそのまま考えずに、生きていることが多くあるのでないでしょうか(私だけですか?)。自分にとって人生のタイムスケジュールに合わないような変化がありました(その変化自体は心から願うことです)。まだ準備中ですが。自分の人生のタイムスケジュールに合わせたい、という思いでなく、神のタイムスケジュールに自分が合わせる人生を生きたい、と思います。神様の天の窓が開く奇跡を体験することを信じ、歩みます。神様のスケジュールに合わせて行動します。

命を与えられる主イエスを感謝し、賛美します。