坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 3月 27, 2009

神様の召命とは

イザヤ52:11-15
去れよ. 去れよ. そこを 出よ. 汚れたものに 觸れてはならない. その 中から 出て, 身をきよめよ. 主の 器をになう 者たち.
あなたがたは, あわてて 出なくてもよい. 逃げるようにして 去らなくてもよい. 主があなたがたの 前に 進み, イスラエル の 神が, あなたがたのしんがりとなられるからだ. 見よ. わたしのしもべは 榮える. 彼は 高められ, 上げられ, 非常に 高くなる.
多くの 者があなたを 見て 驚いたように, ··その 顔だちは, そこなわれて 人のようではなく, その 姿も 人の 子らとは 違っていた. ··
そのように, 彼は 多くの 國¿を 驚かす. 王たちは 彼の 前で 口をつぐむ. 彼らは, まだ 告げられなかったことを見,まだ聞いたこともないことを 悟るからだ.
神様の召しはどのように来るのでしょうか。それは仕事が先なのでありません。奉仕が先なのでもありません。神様との関係が先なのです。キリスト教は宗教(RELIGITON)でなく関係(RELATIONSHIP)なのです。あなたと私が特別な関係だから、この奉仕を任せようということなのです。神様の召しに答える人生がどれほど大事なのか?その召しに答える中で私がどれほど捨てないといけないのか?それは、もっと自分らしい最高の人生を生きることなのです。罪に落ちた人間が神様の精密な計画に会って再創造される祝福なのです。ですから、言われることは何でしょうか?主の器を担う者よ、汚れたものから離れよというメッセージなのです。聖くなくては主の働きは出来ません、というよりも、主イエスと共にいれません。あなたの足の靴を脱げということです。
私たちは、聖めと言う言葉を聞くと負担を感じます。何故ならこのように考えるからです。
①必要な悪だから仕方ない、という言い訳
②習慣的な罪だから難しい
③これは止めれないことだから、やはり今回も駄目だった
④主イエスに入って来れたら困る部屋を持ちます。
⑤これくらいはいいだろう、神様の祝福の関係を壊します。
しかし、主イエスは私を再創造されるのに忙しいのです。それは痛みのある作業です。しかし、嬉しい喜びの作業なのです。そして、主イエスはまだ聞いたことの無い告げ、見たことも無いことを見せ、国々を驚かせるとあります。そして、王たちは彼の前で口をつぐむとあります。神様のみ業はAMAZINGです。平凡でありません。そして、この世の権力者、TOPを黙らされます。今朝のメッセージは大きな励ましでした。私の伝道や知識が果たしてこの世の人に影響力があるのか?この世のTOPの人に伝道するのに引き目を感じていました。しかし、神様はこの世の権力者、TOPに私たちはこのような使命を受けているのに、どうして価値観が変わらずいれましょうか。命のよりも尊い神様に召された人生を歩みます。