坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 3月 28, 2009

何度も繰り返される神様の愛を新鮮に受けよ

イザヤ53:1-6
私たちの 聞いたことを, だれが 信じたか. 主の 御腕は, だれに 現われたのか.
彼は主の前に若枝のように芽生え,砂漠の地から 出る 根のように 育った. 彼には, 私たちが 見とれるような姿もなく,輝きもなく, 私たちが 慕うような 見ばえもない.
彼はさげすまれ,人¿からのけ者にされ,悲しみの人で
を知っていた.人が顔をそむけるほどさげすまれ, 私たちも彼を尊ばなかった.まことに,彼は私たちのを負い,私たちの 痛みをになった.だが,私たちは思った.彼は罰せられ,神に打たれ, 苦しめられたのだと.
しかし, 彼は,私たちのそむきの罪のために刺し通され,私たちの 咎のために ¿かれた. 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし, 彼の打ち傷によって,私たちはいやされた.
誰のために、主イエスは苦しまれたのか?私たちのためです。知っています、分かっています、という答えが聞こえそうです。いや、しかし考えてください!私たちって誰ですか?クリスチャンのことでしょう、でも、私のためにぼろぼろになってくださった主イエス、それは私のにおいのするような罪であったことを、しかも、未だに神様の前に罪を犯すようなものをゆるし、愛するために、十字架で代わりに責任をとってくださった方は主イエス一人だけです。その愛を受け取れずにいるのは、自分の罪と向き合っていない、向き合いたくないことがあります。私がそうです。神様の愛を受け取れずにいるのです。主イエスよ、赦してください、その愛を受け取る中で伝えることが出来るようにしてください。と祈ります。伝道しなさいでなく、主イエスの愛を受けると伝えずに入れないです。さまよっている留学生たちに、人生の目的を失ったいる若者に、日本で駄目だからアメリカでというさまよっている人のそばに建つ人になれますように。主イエスのぼろぼろになられた献身を、代わりに受けられた人として私も歩みます。