坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 3月 28, 2009

よい結果を残すための満足とは?

イザヤ53:7-12
彼は 痛めつけられた. 彼は苦しんだが,口を開かない.ほふり 場に 引かれて行く小羊のように毛を刈る者の前で默っている雌羊のように,彼は口を開かない. しいたげと,さばきによって, 彼は取り去られた. 彼の 時代の 者で, だれが 思ったことだろう. 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ,生ける者の地から絶たれたことを. 彼の墓は惡者どもとともに 設けられ,彼は富む者とともに葬られた.彼は暴虐を行なわず,その口に欺きはなかったが.しかし, 彼を砕いて,痛めることは主のみこころであった. もし 彼が,自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら,彼は末長く, 子孫を見ることができ,主のみこころは彼によって成し遂げられる.彼は自分のいのちの 激しい 苦しみのあとを 見て,滿足する.わたしの正しいしもべは,その知識によって 多くの 人を 義とし, 彼らの 咎を 彼がになう. それゆえ,わたしは,多くの人々を彼に分け與え, 彼は 强者たちを 分捕り 物としてわかちとる. 彼が自分のいのちを死に明け渡し, そむいた 人たちとともに 數えられたからである. 彼は多くの人の罪を負い,そむいた人たちのためにとりなしをする.
私たちは満足する人生を願います。経済的、物、職場、人間関係、最適な生活、そして良い教会、良い牧師、良い学び、家族、しかし、それらは本当の満足ではありません。ある聖書研究で「自分に合う教会」を探しても無い、という話がありました。その通りです。神様が下さる教会には問題もあり、痛みもあります。そして自分に合わない人がいます。どうしたらいいのでしょうか?
それは、今日のQT箇所にあるように「イエスは自分が死んだことで満足された」のです。そしてその満足は多くの人々に救いの義をもたらしました。問題があると黙っていられません。まして、自分が濡れ衣を着て黙っていることなどもってのほかです。しかし、主イエスはそのような人生を歩まれました。そして、罪びとの代わりに死んだのです。しかも黙って。実は、問題も悩みも自分が死ぬことに答えがあるのです。そして、自分が死ぬことにキリストの復活の命が生きるのです。私の満足は何所から来るのでしょうか?私が満足することはサタンの願いです。何よりも、神様の満足が、神様の夢が、多くの人々を愛へと導く、神様にある人生へと導く人生への満足、私が死ぬことに、神様の召し仮名されることを信じ、生きます。問題があるときに何故黙っていられないのでしょうか。何故、問題を広めることを喜ぶのでしょうか。時に正しいことをしている正義感にたって。しかし、そこにキリストの十字架、私の死がなくて価値があるのでしょうか。私たちは日ごとに死なないといけません。自分の現実に満足できませんか?キリストに会って日ごとに何度も死なないといけません。今日も、キリストの死と復活を生きていきます。そこには、ほんとうの平安、満足があります。それは、多くのみを結ぶ満足です。私が死ぬことに満足してきます。