坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 3月 26, 2009

何故、QTを一日のスタートにするのが良いのか?

イザヤ52:1-10
愛する皆さん、QTはどうして朝にするのが良いのでしょうか?もしくは、自分の一日の初めにするのが良いのでしょうか?神様の恵み無しには、生きていけない存在であることを認めているでしょうか?神様の声を聞いて行動するなら、神様にある一日を設計して、時間管理して歩めます。しかし、そうでないなら、神様と共に生きる喜びはありません。それどころか、神様にある一日を設計して生きるなら、それ以上の大きな神様の業を味わう一日となります。そうすると、QTが止められませんよね。
今日の聖書箇所は、神様の回復のメッセージでした。「もう無割礼のものが入ってくることは無い、美しい衣を着よ、聖なる都エルサレムよ」とあります。そして「ちりを落として、立ち上がり、元の座に着けエルサレム」とありました。神様の回復のメッセージをいただいて今日一日をこのように設計しようと思いました。私たちは回復されたクリスチャン、神様の子供なのに、自分の一日を罪の子供として、以前に受けた傷のままに生きようとしていることは無いか?また、何となくぼんやりと、霊的な渇望無しに生きることは無いでしょうか。私たちに中間はありません。善、霊的な方向にに行くのか?肉的な欲求の方向、サタンの方向に行くのか?のどちらかです。そして、今日のみ言葉は「福音を告げ知らせるものの足は何と素晴らしいことか」というメッセージと、シオンをエルサレムを回復する、というメッセージに、地の果ては果てまでも神様の救いを見るというメッセージでした。私にとって、胸に迫るメッセージでいした。この北米で宣教する教会(駐在員、国際結婚、留学生を対象に)する時に、全員が違う最終的なDESTINATIONに向かう人々にどのように教会を建てるのか?と考えたときに使徒の働き28章30-31節にある宣教する教会というメッセージが与えられました。それは、首都のようなURBAN SQUEREにある教会です。そして、世界宣教する教会です。今日は、この御言葉を持って過ごしました。水曜日礼拝をリトルトーキョーにある組合教会日本語部に無事に参加でき、良いお交わりを持ちました。そして、夜の水曜日礼拝をあるKOREAN CHに行きたいと思ったのですが、車が無くては到底いけない距離でした。午後6時ごろまで連絡できる方がおらずに、もう無理かなと思って地下鉄でいける教会を探し出しました。また、その心の裏には具体的に何か開かないことへのあせりがありました。しかし、そこは水曜日礼拝が無いことが分かり、難しくなりました。行きたいと思っていたKOREAN CHへあるクリスチャンの方が連絡してくださり、教会のある方からまた別の方、そのまた別の方と連絡してくださり、無事に行くことが出来ました。それは、神様のみ言葉を信じる者にはこのような奇跡がある、神様にある一日を設計するなら、もっとすごい何百倍の奇跡が待っていることを教えてくださる日でした。神様にある御言葉を持って信じ、歩みます。