坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 3月 17, 2009

現実につぶれるのか?永遠の神様の王座に立つのか?


イザヤ47;1-7
「おとめバビロンの娘よ.下って,ちりの上にすわれ. カルデヤ人の娘よ.王座のない地にすわれ.もうあなたは,優しい上品な女と呼ばれないからだ. ひき臼を取って粉をひけ.顔おおいを取り去り,すそをまくって,すねを出し,川を渡れ.
あなたの裸は現われ,あなたの恥もあらわになる.わたしは復讐をする.だれひとり容赦しない. 」 私たちを贖う方,その名は 万軍の主,イスラエルの聖なる方. 「カルデヤ人の娘よ. 默ってすわり, やみにはいれ. あなたはもう, 王國の 女王と 呼ばれることはないからだ. わたしは,わたしの民を怒って, わたしのゆずりの 民を 汚し, 彼らをあなたの手に渡したが, あなたは 彼らをあわれまず, 老人にも, ひどく重いくびきを負わせた. あなたは『いつまでも, 私は 女王でいよう. 』と 考えて, これらのことを 心に 留めず, 自分の 終わりのことを 思ってもみなかった.

私たちは、時に悪の栄えることに理解できないことが無いでしょうか。また、悪の栄えることに嫉妬することは無いでしょうか。また、何故私をほっておいて、神様は裁かれないのだと思うことは無いでしょうか。逆にまるで、悪は豊かで善はいつも貧しいのが当たり前だと思ってはいないでしょうか。今日の聖書箇所は、悪には永遠の王座が無く、安定した王国でないことが言われています。そして、神様の日には必ず悪は明らかにされることを言われています。その時はいつか分かりません。わかる必要もないかもしれません。何故なら分かってしまったら、自分の力でしたり、どうせそのときまで遠いとか、近いとか人間的な計算は良いことを生みません。神様の時、神様の方法お任せしてに信頼することが素晴らしいのです。何故なら、神様は最善をなされる方であり、最高の知恵でわたしたちを導かれる方であるからです。どうして、このことが信じられるのでしょうか。それは、私たちの属している神様の国とは、キリストの十字架によって、神様の子供の命によって買い取ってくださったからです。神様の国とは、主イエスキリストの十字架によって私の心が支配されることです。世の中の心配や恐れや、誘惑に支配されるのでなく、イエスの愛と義によって支配されることです。私の立っている現実は、難しく、祈っても何も起こらないように見え、悪いものが栄えるように思えても、私の心は永遠の神様の祝福が注がれています。必ず、神様の祝福が臨みます。今日私にとって替わらないように思える現実に、心が傷つくのでなく、人の言う言葉、現実に縛られるのでなく、神様の王国がこの世に、私に、アメリカに、世界に、日本に建てられる付けることを信じ、祈ります。