坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 3月 01, 2009

真の強さと知恵はどこから来るのか?

イザヤ40;9-17
シオンに良い知らせを傳える者よ. 高い山に登れ.エルサレムに良い知らせを傳える者よ.力の限り聲をあげよ.聲をあげよ. 恐れるな. ユダ の 町¿に 言え. 「見よ. あなたがたの 神を. 」 見よ.神である主は力をもって 來られ, その 御腕で 統べ 治める. 見よ. その 報いは 主とともにあり,その報酬は主の前にある.
主は羊飼いのようにその群れを飼い, 御腕に 子羊を 引き 寄せ, ふところに 抱き, 乳を 飮ませる羊を優しく 導く.だれが,手のひらで 水を 量り, 手の 幅で 天を 推し 量り, 地のちりを ¿に 盛り, 山をてんびんで量り, 丘をはかりで 量ったのか. だれが主の
を推し量り,主の顧問として 敎えたのか. 主はだれと相談して悟りを得られたのか. だれが公正の道筋を主に敎えて, 知識を 授け, 英知の道を知らせたのか. 見よ國¿は手おけの一しずく,はかりの上のごみのようにみなされる. 見よ.主は島¿を細かいちりのように取り上げる. だれが主のを推し量り,主の顧問として敎えたのか.
主はだれと相談して悟りを得られたのか. だれが 公正の 道筋を 主に 敎えて, 知識を 授け, 英知の道を知らせたのか. 見よ.國¿は, 手おけの 一しずく, はかりの 上のごみのようにみなされる.見よ.主は島¿を細かいちりのように 取り 上げる.
私たちは、何故恐れずに入れるのでしょうか?それは、主なる神様との関係が暖かく、愛に満ち、優しい方であることを(人間的な意味でなく)持っているときにそうなれるのです。神様を礼拝するものであるときに、まことの恐れを負うなる神様に持つときに、まことの強さをもてます。シオンに良い知らせを告げるものよ、山に登れ(9節)とあります。私たちは神様だけを礼拝するときに真の人生を生きれます。また、その御言葉を聞いて、宣言するときに力があります。私たちの感情は揺れます。しかし、御言葉に頼るときに新しい力が来ます。そして、それを伝えないといけません。エルサレムによき知らせを告げるものよ、声を張り上げよ、恐れるな!といわれます。神様への信仰を告白し、宣言しきる必要があります。それが出来る出きないを恐れるのでなく、なされる神様に信頼して、宣言するなら、神様は愛する子供の告白に喜んで答えてくださいます。だから、私たちを見るのでなく、神を見よと叫ぶことが出来るのです。全能なる、全知の神様をもっと知ることを願います。