坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 8月 31, 2008

神は人格を見られる

民数記12:1-8
「しかし、モーセは地上の誰にも勝って非常に謙遜であった」3節
アロンとミリヤムがモーセをねたんで、「主はモーセとだけ話したのでしょうか」ということを「主は聞かれた」という後に出てくる御言葉です。モーセが神様のリーダーシップを独占しなかったのと逆に、周りのしかも家族がねたんできたのです。しかも、公衆の共同体に影響を与える形でです。普通なら、どんなに腹立たしいことでしょうか。しかし、彼は地上の誰にも勝って謙遜だったのです。
謙遜な人とはどんな人か?
① 自分の権威でなく、神様の権威を認める人
② 自分の義でなく神様の義で生きる人
③ 自分の愛のなさを認め、神様に頼る人
④ 自分の不足な罪ある姿をそのまま認め、神様に頼る人
それは、どこからくるのか?神様との交わりの中で、神様を知ることから神様を、自分の真の姿を知る。モーセは「自分が口下手」だと言う人でした。アロンは上手だといいました。しかし、神様が見られるのは、能力でなくその人の人格です。忠実なものを喜ばれるものです。
モーセにとって、どれほど出エジプトは人格を確かめられる、厳しい旅行であったかわかりません。
イスラエルの民を導き、ほめられるのでなく、厳しいことや、周りの人々から不平や不満を言われ、あげくに、自分の身内から責められる。しかし、真に謙遜な人は決して復讐心に燃えずに、神様の前の忠実さを失いません。この時代は実力を求めるかもしれません。しかし、その前に神様の前にある忠実さを持って歩むことを祈ります。私の今日の奉仕が、牧師としての人生が「謙遜」を求め続ける人生になるように、何よりも神様の前に交わる人生になることを祈ります。