坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 8月 31, 2008

教会のリーダーシップは一人のスーパーマンがいるのでない

民数記11:24-35
すると主は雲の中にあって降りてこられ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その70人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは預言した(25節)
若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った「我が主、モーセよ。彼らをやめさせてください」「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな預言者となればいいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えるといいのに」(26-27節)教会のリーダーシップには、聖霊の油そそぎが必要です。しかし、それは一人のスーパーマンだけがすればいいこと、もしくは受ければいいことで、私と関係の無いこと、なのではありません。クリスチャン全ては霊的なリーダーシップをもたらされた人です。また、逆にすでにリーダーとして立っている人は自分の有意義のためにだけ、そのポジションを持つのでなく、神様の栄光のために、全ての人々の有意義のためにそれを願わないといけません。モーセは全ての民が預言者となればいいのにと願いました。また、ご自分の霊が注がれることを願いました。まことのリーダーは自分の地位や権威に固執しません。それは、神様のものだからです。それを通して、自己実現しようとかないわけです。
そこに、保身するとかも無いのです。人間的にはヨシュアの言葉は若いときからの従者であったために、モーセのためにねたみを起こしたことは、彼の人間味を感じます。しかし、まことの教会のリーダーシップはお互いを立てることに興味があります。自分ではありません。神様の栄光と人々がたてられることです。私の教会の人をたてるリーダーシップがあることを祈ります。私が自分の地位でなく、自己実現でもなく、神様のリーダーシップをたてることを祈ります。