40という数字
40日が経って、彼らはその地の偵察から帰ってきた。(民数記13:25) イスラエル部族の代表者たちは、神様の約束の地の偵察から帰ってきました。その結果は、信仰で神様の約束を(過去)を現在の従順という形で得ることができませんでした。そのために、未来にある祝福を得ることができませんでした。これは、私の信仰をすごく刺激するものでした。神様の約束は既になされたものです。しかし、私は現在の状況が難しいと従順に従うということができません。敵は、自分を取り囲む状況は難しく、自分たちの心をなえさせるのです。しかし、今日の聖書箇所は10人の代表たちが全員否定的な言葉を言ったにもかかわらずに、カレブはただ一人立ち上がって神様の勇気に満ちた意見を堂々と話します。敵や味方さえも落ち込む状況の中でただ信仰に立ちます。カレブはこの後、従順したにもかかわらず、40年の荒野生活をすることになります。40日の偵察とそこから来た不従順のために、40年の罰と荒野で第一の世代がカレブやヨシュアを除いて死に絶えることになります。カレブはどんな気持ちで40年を過ごしたのでしょうか?また、40日の偵察は長い時間です。イスラエルの10人の代表はどんな気持ちで40日過ごし、どんな会話を過ごしたのでしょうか。「うわ、素晴らしい土地だけど絶対にこの地は得ることはできない、私たちは彼にとっていなごのようだ、これは部族に報告しないと」と否定的な話を充満させたのでしょうか。それに反して、カレブは信仰を持った会話と思いで40日の偵察をして生きたのでしょうか。彼は、カナンの地に入ってから約束の地に入るとき「あの日と変わらない体と心」を告白しました。私が学ぶ得る教訓は何でしょうか。神様に会ってカナンの地(約束を信じ従うこと、そして状況によって出なくビジョンによって生きる)そして、40日の偵察、40年の荒野の生活を心と体をなえて生きるのでなく信仰を持って変わらない神様の愛と約束を信じることです。今日の荒野の待つ学校を約束を信じて歩みます。
まことのリーダーの姿
「それで、モーセは主に叫んで言った。神よどうか彼女を癒してください」(13節) アロンとミリヤムが主の裁きにあい、ミリヤムがツァラトに犯されたという事件です。そこで、アロンが悔い改めてモーセに頼んだ時に「すぐに」その悔い改めを受け入れ、とりなしたのです。 普通ならそうはできないし、しないことでしょう。まことのリーダーは自分が罪を許し、敵を愛することの祝福の権利を持っていることを一番大事にします。偽のリーダーは自分が高められることだけを願います。それは、イエス・キリストの十字架の謙遜なすがた、卑しくまでされた姿そのものです。世間のリーダーは自分がもてはやされ、もちあげられることを願います。しかし、まことのリーダーは自分が損をしても、神様の愛が流れることを願います。自分で敵対が、傷が終わることを願います。以前に、私が中学生時代にサッカーをしていたときに先輩が後輩に試合の時にジュースを持ってこさせ、自分たちが飲ませることを伝統にしていたときがありました。ぜんぜん悪い伝統ですね。それを、私たちが先輩になったときに悪い風習はやめる、ということになりました。そのときの先生の言葉がこうでした。どこかで損をしている人がいないと悪い習慣はずっと続くという話のもとやめました。私たちにとって、後輩が可愛くも感じれず、サッカーが私たちよりも上手である世代よりも、ずっとレベルの下がる感覚がしました。しかし、悪い罪の根は切らないといけません。
私が、まことのリーダーとして罪の根を切るリーダーになることを祈ります。今日仕える人や常識を知らない、困った人に接するときに神様のリーダーとして歩みます。
神は人格を見られる
民数記12:1-8
「しかし、モーセは地上の誰にも勝って非常に謙遜であった」3節
アロンとミリヤムがモーセをねたんで、「主はモーセとだけ話したのでしょうか」ということを「主は聞かれた」という後に出てくる御言葉です。モーセが神様のリーダーシップを独占しなかったのと逆に、周りのしかも家族がねたんできたのです。しかも、公衆の共同体に影響を与える形でです。普通なら、どんなに腹立たしいことでしょうか。しかし、彼は地上の誰にも勝って謙遜だったのです。
謙遜な人とはどんな人か?
① 自分の権威でなく、神様の権威を認める人
② 自分の義でなく神様の義で生きる人
③ 自分の愛のなさを認め、神様に頼る人
④ 自分の不足な罪ある姿をそのまま認め、神様に頼る人
それは、どこからくるのか?神様との交わりの中で、神様を知ることから神様を、自分の真の姿を知る。モーセは「自分が口下手」だと言う人でした。アロンは上手だといいました。しかし、神様が見られるのは、能力でなくその人の人格です。忠実なものを喜ばれるものです。
モーセにとって、どれほど出エジプトは人格を確かめられる、厳しい旅行であったかわかりません。
イスラエルの民を導き、ほめられるのでなく、厳しいことや、周りの人々から不平や不満を言われ、あげくに、自分の身内から責められる。しかし、真に謙遜な人は決して復讐心に燃えずに、神様の前の忠実さを失いません。この時代は実力を求めるかもしれません。しかし、その前に神様の前にある忠実さを持って歩むことを祈ります。私の今日の奉仕が、牧師としての人生が「謙遜」を求め続ける人生になるように、何よりも神様の前に交わる人生になることを祈ります。
教会のリーダーシップは一人のスーパーマンがいるのでない
民数記11:24-35
すると主は雲の中にあって降りてこられ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その70人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは預言した(25節)
若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った「我が主、モーセよ。彼らをやめさせてください」「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな預言者となればいいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えるといいのに」(26-27節)教会のリーダーシップには、聖霊の油そそぎが必要です。しかし、それは一人のスーパーマンだけがすればいいこと、もしくは受ければいいことで、私と関係の無いこと、なのではありません。クリスチャン全ては霊的なリーダーシップをもたらされた人です。また、逆にすでにリーダーとして立っている人は自分の有意義のためにだけ、そのポジションを持つのでなく、神様の栄光のために、全ての人々の有意義のためにそれを願わないといけません。モーセは全ての民が預言者となればいいのにと願いました。また、ご自分の霊が注がれることを願いました。まことのリーダーは自分の地位や権威に固執しません。それは、神様のものだからです。それを通して、自己実現しようとかないわけです。
そこに、保身するとかも無いのです。人間的にはヨシュアの言葉は若いときからの従者であったために、モーセのためにねたみを起こしたことは、彼の人間味を感じます。しかし、まことの教会のリーダーシップはお互いを立てることに興味があります。自分ではありません。神様の栄光と人々がたてられることです。私の教会の人をたてるリーダーシップがあることを祈ります。私が自分の地位でなく、自己実現でもなく、神様のリーダーシップをたてることを祈ります。
神様は「吐き気を催すほどに」充分に満たされる
神様は「吐き気を催すほどに」充分に満たされる
民数記11:16-23
今日の聖書箇所は、神様が「肉を食べたい」と言ったイスラエルの民に神様の力を見せられるところです。イスラエルの民が以前の罪の生活、そこから抜け出すことよりも、以前に慣れ親しんだ生活にいることを主張するシーンです。ここで面白い聖書箇所は「吐き気が催す」ほどにまだ食べさせるという神様の答えです。神様はもちろん別に奇跡ができない方でも、出し惜しみをされる方でもありません。しかし、私たちはなんと不平や不満が多いことでしょう。 また、困難な状況の中で「全能なる神様の力」を信じることや、
「神様の時」を待つことがなんと難しいことでしょうか。今日の聖書箇所でモーセはこう言います。 「しかし、モーセは申し上げた~全部集めても、彼らに十分でしょうか」(21-22節)あの信仰の人モーセ、この世で一番謙遜な人(民数記12:3)でさえも、神様のみ前で無理だといったのです。
これをみながら、人は苦難の中で傷を受けるときに「その傷から立ち上がることが信仰者でも難しい」ということを黙想しました。私にとって、最近長く祈っている祈祷題があります。なかなか答えが来ないことに傷があります。絶望の中でいるような思いがあります。ひごとの傷の癒しが私には必要です。日ごとの神様の力強いみ手を体験する必要があります。
しかし、「主の手は短いのだろうか、わたしのことばは実現するかはいまわかる」(23節)
神よ、あなたの手を信じます。私の人生を出エジプトさせた主よ、荒野の中で導いてください。
父なる神はむぬに抱く
うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖に誓った地に連れて行けと言われるのでしょう(民数記11:12)モーセにとって、この世でも最高の指導を受けて素晴らしい指導者にとっても、イスラエルの民を導くのはとんでもなく大変なことでした。民はモーセにわめいた(2節)とあります。主にはつぶやいた、とあります。そういう人を導くのは、正直モーセでないけど「殺して下さい」という苦しみだったでしょう。しかし、ここに父なる神様の愛を見ることができます。それは「神様の胸に抱かれた乳飲み子」のようにイスラエルの民を扱われた、ということでした。これこそ、父なる神の心で、そうでなければイスラエルの民はさばかれていたでしょう。しかし、そうはされなかったのです。わたしにとって、最近示されることは「父なる神の心」です。人からの傷に縛られることもなく、完全にいやし、ひどい子供を「抱きかかえる父の愛」です。留学生の働きをする時に、困った人と接するときに、自分は何とめんどくさい顔や怒った顔をしているのだろうか、と思いました。まさに、自分を殺してくれていったモーセのようです。今日も、再び父なる神様の愛で歩ませて下さいと祈ります。
恐れのない人生
民数記9:15-232日でも、1月でも、あるいは1年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければイスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った(22節)幕屋の持ち運びは、非常に難しかったと聞いたことがあります。以前にいた教会の伝道士が前の職場で建築業だったために「これ、持ち運ぶタイプのも出ないですよ」と言ったのを印象的に覚えています。神様の幕屋を持ち運ぶときに、面倒くさいとか大変だと思った人はいないのかな?と感じたことがあります。しかし、彼らにとって「神様のおられる」ことは自分の命であり、神様のいないところでは生きることが出来なかったのだなと思いました。2日でも1年でも主の雲が動かなかったらとどもまっていたのは、神様のいる所ならどこでも生きていけるし、神様のおられないところじゃ豊かなところであっても、生きていいけないのです。私のこれからの進路を考えると、どうしたらいいのかと考えることがありました。しかし、逆に神様のおられるところなら、どこにでも行けるし、どこにでもいれると思いました。私の祈りのリストを書いたら、こんなにも祈れるところがあるのだと思うと心が熱くなりました。感謝だなと感じました。神様の導きの中で生きれることは安心だなと心から感じました。主のメッセージに従う、主の動くところ、とどまるところにいるクリスチャンになっていきます
あなた無しでは生きられない
民数記10:11-28まずはじめにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発した(14節) 幕屋が取り外され、幕屋を運ぶゲルション族、メラリ族が出発(17節)今日のQTは、イスラエル部族の移動の順序についての黙想です。 最初には、戦いの代表であるユダ部族が出発します。しかし、次は幕屋の取り外しがきて 幕屋に仕える部族が出発します。もしも、戦いに優先順位があるならば別の部族がきていいはずです。もしくは、幕屋を守るために別の部族がきて幕屋は最後でいいという考えが来るかもしれません。しかし、ここではそうではありません。ここで示されたのは、幕屋は(神様の臨在)人に守ってもらうほどの弱いものでは決してないということでした。かえって、人が幕屋の進むところでなければ、先に神様のおられるところでなければ 生きていけない、ということでした。私ははたして、神様の臨在のところに先に従っているでしょうか。それとも、自分が先に進もうとしているのでしょうか。神様の臨在なしには、この人生の荒野を進むことをできないと思っているのでしょうか。私の人生にとって、韓国での生活は「神様以外に頼る方のいない」ことを示す場所でした。これから、どこに行くのか?神様のいるところに行くだけであると思いました。神様のおられるところに住むのであると思いました。そのためには、神様の導きを前にして歩んでいくことを決心します。
神様のラッパをどう聞いているのか
民数記10:1-10
もしも、その一つが吹きならされるとイスラエルの分団のかしらである族長たちが集まってくる(4節)
神なる主はラッパを作らせました。その使用目的は
①会衆を収集するため
②族長を収集するため
③全焼のいけにえ
④旅立ちのために
⑤戦いのために
いずれにしても、神様の声を、命令を聞くラッパでした。このラッパをどのように人々は聞いたのかなと思いました。
ちょうど、日本語礼拝部教職者の修養会に来ていた朝だったのですが、 もう少し眠っていたい朝でした。目覚ましがなることを聞きながら「眠い」という思いで聞いたいたり、 まだ前の人は眠っているぞ、という気持ちでいました。はたして、イスラエルの人はどんな思いで聞いていたのか?
また、このラッパを吹くアロンの子はどんな気持ちでラッパを吹いたのか?
神様の大事な指示を伝えるラッパを吹くときに喜びをもって、霊的な緊張感をもって吹いたのか?
黙想しました。誰かれもなく、このラッパは吹けなかったのです。
神様のサイン、メッセージを聞く方は「素早く反応したでしょう」し伝える人は「自分の意志やいらない気持ちを混ぜずに神様のメッセージを力強く語ったでしょう」今朝、早めに帰って留学生の働きをする予定でした。
神様のサインを心から力強く聞き従い歩むことを決心しました。人の目を気にせずに神様の仕えるリーダーとして神様のサインであるラッパをしっかり吹くことを祈りました。