坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 6月 28, 2007

主イエスの召しにふさわしく生きる時に

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい(エペソ4:1)

私たちは、どうして悩むのでしょうか。どうして、苦しむのでしょうか。どうして、自己実現の夢にかなわず、挫折するのでしょうか。どうして、自分の目標を探せずにさまようのでしょうか。
それは、神様の下さった人生の計画通りに歩めないからです。もしくは、歩まないからです。
自分が誰であって、自分の勧めべき目標を知らずに、もしくは自分の歩みたいとおりに生きるから苦しいのです。
使徒パウロは、自分のことを「主の囚人」と紹介します。
そして、召されたあなたがたはその召しにふさわしく歩みなさい、と言います。
ここで言う召しは、全てのクリスチャンに言われている召しです。全てのクリスチャンは救いのみならず、キリストの弟子と召されています。キリストが地上に教会を残されたのは、礼拝をするために、養育され、キリストを伝えるためです。
私にとって、日ごとの奉仕は時に「忙しさ」や「日常」に追われて気がつくと
主イエスの召しにふさわしく歩むことを忘れさせたり、知らないうちにぶれた生き方に持ち込まれるときがあります。今朝、この御言葉でリフレッシュしました。奉仕がまるで仕事をしているような感覚、人間関係においてこの世と同じような交わりになるなら、そうでないはずです。
主イエスの下さった召しは、分裂でなく一つです。キリストの弟子として一致を求めて歩みます。そこに、この世をいきる希望があるのです。主イエスの召しにそれぞれの場でふさわしく生きる時に幸福なのです。私はきょうも主の囚人として生きます。

木曜日, 6月 21, 2007

今日の祈り


どうか 父が, その 榮光の 豊かさに 從い, 御により, 力をもって, あなたがたの 內なる 人を 强くしてくださいますように.
人知をはるかに 越えた キリスト の 愛を 知ることができますように. こうして, 神ご 自身の 滿ち 滿ちたさまにまで, あなたがたが 滿たされますように. (エペソ3:16.19)
神様が私を救われたのは、滅びることを願われずに愛し救ってくださったのですが、私を同時に神様の生きる使命を与えてくださいました。それは、賜物による違いはあっても全てのクリスチャンに神様はキリストの弟子として召してくださったのです。

その中で、今朝特に示されたことは、この韓国でソウルで、私を導かれた主のみ旨がなされるようにということでした。日ごとの奉仕や人間関係につぶされそうになるときもあります。自分の足りなさに、限界に倒れそうになることがあります。無理じゃないのか、と思ったりします。他の人の素晴らしい働きや人格を見て自分を低く見ます。しかし、神様への祈りはこうです。キリストのみち満ちたみたけにまで満たされますように。なのです。すると、私の限界で終わるのでなく、神様の目標まで行くことを神様は願われ、導き、責任を持って勧めてくださるし、成してくださるのです。こう祈りました。

このソウルで私を平凡なクリスチャン、牧師に終わらせず、まことの人知を超えたキリストの愛を持つ牧師として、リーダーとして、霊性を満たしてください。

目的ある人生を生きてる喜び

あなたがたは 自分の 罪過と 罪との 中に 死んでいた 者であって, そのころは, それらの 罪の 中にあってこの 世の 流れに 從い, 空中の 權威を 持つ 支配者として 今も 不從順の 子らの 中に ¿いている に 從って, 步んでいました.
私たちもみな, かつては 不從順の 子らの 中にあって, 自分の 肉の 欲の 中に 生き, 肉と 心の 望むままを 行ない, ほかの 人たちと 同じように, 生まれながら 御怒りを 受けるべき 子らでした. しかし, あわれみ 豊かな 神は, 私たちを 愛してくださったその 大きな 愛のゆえに,
罪過の 中に 死んでいたこの 私たちを キリスト とともに 生かし, ··あなたがたが 救われたのは, ただ 惠みによるのです.(エペソ2;1-4)


日曜日の朝には、QTの分かち合いと学びをスターバックスでしています。ここでの大きな恵みは神様の声を聞く、神様との交わりを強くもてなかった人々が、このQTを通して変えられていくということです。ちなみに、スターバックスでしているのは教会に借りれる場所が無いからです。あまりに人々と行事が多すぎて、QTの交わりを持つ場所がスタバになりました。
神様とコーヒータイムという感じです。
さて、この日のQT分かち合いはクリスチャンになる前の自分の姿を見せられ、しかし今はこのように変えられたという恵みでした。クリスチャンになる以前の自分は、自分のしたいことをしてるように勘違いしていて、実は罪に縛られている人生でした。本当に不自由な、自分でコントロールできない人生を生きていました。それは、目的の無い根無し草のような人生でした。そして、自分の所在がどこにあるのか、分らない人生でした。
今改めて、こうしてソウルの地で「神様にある目的をもって生きれる人生」それは、どんなに素晴らしいことか思いました。思うだけで、涙があふれてきます。本当に自分らしく生きれる人生、喜びあふれる人生を、恵みによって与えてくださり、行いで無く、人の目に縛られず、人の評価でなく生きるようにしてくださった主イエスを賛美します。

何の不足も無い


神は, その 全能の 力を キリスト のうちに ¿かせて, キリスト を 死者の 中からよみがえらせ, 天上においてご 自分の 右の 座に 着かせて, すべての 支配, 權威, 權力, 主權の 上に, また, 今の 世ばかりでなく, 次に 來る 世においてもとなえられる, すべての 名の 上に 高く 置かれました.
また, 神は, いっさいのものを キリスト の 足の 下に 從わせ, いっさいのものの 上に 立つかしらである キリスト を, 敎會にお 與えになりました. 敎會は キリスト のからだであり, いっさいのものをいっさいのものによって 滿たす 方の 滿ちておられるところです.(エペソ1;20-23)

私たちの人生を満たすものは何でしょうか。それは、お金、仕事、名誉、安定した生活でしょうか。また、私の心を満たすものは何でしょうか、また誰でしょうか。今日のQTの箇所からこう神様は言われます。全ての名の上にイエス・キリストを高くおかれ、いっさいのものをキリストに与えられたとあります。そのイエス・キリストを教会に与えられた、とあります。ということは、私たちクリスチャンに与えられた、ということです。

私にキリストを与えられた、というのに何を不足していることを探しているのか、

何を不平や不満や、苦しみの中にいるのだろうか、と思いました。

神よ、私の目を開き「知恵と啓示の御霊を与えてください」

キリストの栄光を、私たち信じる者に働く神の優れた力がどのようなものか見させて下さい。

私の人生に全てであるキリストに満足します。

水曜日, 6月 20, 2007

霊的な祝福とは

「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」
(エペソ1:3)


久しぶりのQTです。完全に後追いですね。最近、忙しいのもあるんですけど、最近、私の周りの状況がいろいろ変化しつつあります。本当に日ごろから神様にある信仰を持つことを試されている気がします。決して楽な状況でありません。しかし、その中で信仰を持つ祝福を感じます。今日のQTの中でも得た恵みは神様からの霊的な祝福は何か?ということです。祝福とは、自分の生活や経済的なことを考えがちなことや、名誉に関することを連想しながちなことはないでしょうか。また、そこまでいかなくても自分のポジションやいろんなことが壊れそうな時にそれを失うことへの恐怖があります。また、不名誉なことや自分への誤解、いらないうわさに心が揺さぶられるときがあります。自分が軽く扱われるときに怒りがあります。しかし、私にキリストを通して与えれた霊的な祝福は、
人の基準でない神様にある聖さを与えられたのです。
傷の無いものとしようとされるのです。
この聖く、傷の無いものは人には造れないものです。
神様によってのみ、私たちに与えられるものです。

それは、誰にも奪うことの出来ないものです、
罪によって裁かれて、死んで当然の私をすくってくださった霊的な祝福があるのに、
この世でもその祝福を持って生きれるのに何を恐れるのでしょうか。

今日も、霊的な祝福を持つクリスチャンとして堂々と生きます。

月曜日, 6月 04, 2007

クリスチャンってどんな人か?

イエス · キリスト のしもべであり, ヤコブ の 兄弟である ユダ から, 父なる 神にあって 愛され, イエス · キリスト のために 守られている, 召された 方¿へ.
どうか, あわれみと 平安と 愛が, あなたがたの 上に, ますます 豊かにされますように.
愛する 人¿. 私はあなたがたに, 私たちがともに 受けている 救いについて 手紙を 書こうとして, あらゆる 努力をしていましたが, 聖徒にひとたび 傳えられた
信仰のために 戰うよう, あなたがたに 勸める 手紙を 書く 必要が 生じました.(ユダの手紙1:1-3)
とうとう、ヨシュア記が終わりましたね。ユダの手紙はどうですか。うわー楽とかやりやすいという雰囲気かもしれません。私はすごく終わってしまって残念なんですけど。さて、ユダの手紙のあいさつの部分から多くの恵みを受けました。それは、クリスチャンってどういう人か、ということです。
①父なる神に愛されている人
②イエス・キリストに守られている人
③イエス・キリストに召されている人(使命のある人)
④お互いに愛する人告白し会える人がクリスチャン
⑤すでに注がれている恵みにさらに相手のために恵みを求める人がクリスチャン
⑥救いについての教理を自分ひとりでなく、お互いに分かち合う
⑦相手が間違った方向に行くなら正すのがクリスチャン
⑧それは、愛を持ってつかえること
⑨信仰のために戦うことがクリスチャン
⑩信仰のための戦いをするのに、他の人を教え、仕えるのがクリスチャン
信仰のために戦うことはあまり語られないかも知れないし、あまり聞くのも好きでないかもしれません。しかし、初代教会から異端への闘争、そして神様に従順するゆえに愛の戦いをするのがクリスチャンです。神様の教えに従うなら、この世の罪とは必ずぶつかります。田舎や地方では人の目があるかもしれないし、人間関係も深いでしょうし、長く続いた人間関係からいきなりクリスチャンになって違う人生や価値観をもって生きること、教会に日曜日通うことは大きな変化かもしれません。その分大きな迫害や困難は地方にあると思います。逆に、都会では隣の人のすることにそんなに気を使わないかもしれないし、神様の教えに従うかどうかは誰も見ていないかも知れないし、誰も干渉しないかもしれません。しかし、神様は見ておられます。そして、祝福されたいと思っておられます。都会では自己申告を神様にしないといけません。それは、逆に人の目に負担を感じない分大きな責任であるかもしれません。クリスチャンはどういう人であるのか、その祝福をゲットする一日でありたいと思います。

もしあなたがたが 主を 捨てて, 外國の 神¿に 仕えるなら, あなたがたをしあわせにして 後も, 主はもう 一度あなたがたにわざわいを 下し, あなたがたを 滅ぼし 盡くす. 」
それで 民は ヨシュア に 言った. 「いいえ. 私たちは 主に 仕えます. 」
それで ヨシュア は 民に 言った. 「あなたがたは, 主を 選んで, 主に 仕えるという, 自分自身の 證人である. 」すると 彼らは,「私たちは 證人です.」と言った.(ヨシュア24:20-23)

ヨシュア記もいよいよ終りですね。アップデートするのが最近は大変遅れてしまってなかなか厳しい日々です。さて、きょうの聖書箇所は幸せの根源は神様にあると教え宣言しています。逆に今からでも、罪を犯し、神様に逆らうなら「裁き」と「滅び」がある、と神様は教えられます。神様の愛はねたむ愛であり、完全に罪を許されぬ方です。しかし、私たちの罪のために主イエス・キリストを十字架にかけてくださり、私たちは罪から自由にされました。そして、神様と共に生きる日々がスタートしたのです。しかし、その中で自分の思うとおりに生きるのが幸福だと思わせる錯覚があります。
本当の幸福は私たちを愛される神様と共に生きてこそ自由ですし、幸福なのです。
ヨシュア記の終りの部分には、ヨシュアや主がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えたという言葉があります。胸のさされる部分です。自分も牧師として、だれだれのいる間、もしくは牧師である私のいる間は大丈夫だった、ということが無いことを心から願う者です。一人一人が神様のみわざを見た人として歩む弟子作りを目指していきます。