「神様が必ず顧みてくださる」という期待から来る忍耐
「王は言った。あれは自分の家に引きこもっていなければいけない。私の顔を見ることはならぬ」(24節)
「さて、イスラエルのどこにも、アブシャロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった」(25節)
「今、私は王の顔を拝したい。もし、私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない」(32節)
ア ブシャロムは外見においては「傷やしみのない」人でした。しかも、彼は自分の心の中までも「傷やしみがない」自分だとしていたのです。アブシャロムはアム ノンを殺害したことも、正当な復讐として自分に罪が無い、と思っていたのです。また、その美しさをほめはされた人(アブシャロム)が「自分の家に引きこも る、父の王の顔を見れない」ことが、どれほどつらいか、実力を発揮できないことがどれほど欲求不満であるのか、自分の若い日に、働き盛りの日に何も出来な い、痛みがはかりしれません。
そこで、「アブシャロムは自分に罪がない(韓国語聖書訳)、今王の顔を拝したい」と言うのです。自分にとって も、アブシャロムのように自分の罪を認めぬ、悔い改めないでいることはもちろん、おかれている環境や周りの人々に文句を言ってしまうことがどれほどあるの か、と思います。
また、神様がこのようにアブシャロムの環境を置かれて、悔い改めと「再生」のチャンスを与えられたのに、彼には待てず 「今、王の顔を拝したい」と言ってしまったわけです。アブシャロムにも、自分にも足りないのは「神様に対する罪の悔い改めと、今神様がこの環境を置かれ訓 練されていること、そこから来る神様への期待から来る忍耐」です。
自分はこんなアブシャロムのようには「人のほめるものがないわけ」です が、自分が「あまりにいろんなことができない」というストレスは日々重くのしかかってきます。働き盛りの日にこんな時間のすごし方でいいのか、と思いま す。しかし、今、神様が私をここに置かれたことを思うときに、それは絶対に無意味でないことと、私への愛の訓練であることを覚えます。また、私に任せられ た愛する聖徒の皆さんを完全に整えるために、立てあげるために(エペソ4章12節)私が仕える道が用意されています。
この時間を必要だから 神様は与えられたのです。現状は難しいけれど、必ず、神様が顧みてくださること、を覚えます。ここに、神様が遣わされて「御言葉を宣言する」必要があるの です。御言葉を待っている民がいるのです。私が神様に遣わされた使命に忠実に、しかも喜んで忍耐して、生きることができるのです。ここ最近、失望すること や暗雲の立ち込めるような思いがありましたが、もう一度神様のビジョンを持って松山に来た時のように、キリストを見上げて「期待」していきます。
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