坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 11月 25, 2005

「わずかでも祈る」

「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらあゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御心に関する真の知識に満たされますように」コロサイ人への手紙1章9節

今日の与えられた恵は「わずかでも祈る」ことから始めることでした。祈りをもって仕えることは、聖徒を立てあげるのに必要不可欠なことです。しかし、今日のQTをしながら私の反応は、素通りをしようとしていました。自分の行動や、自分が奉仕において準備することに集中しようとしていました(それは、青年の聖書の学びや、とても大切な伝道の働きである①幼稚園のお母さんの聖書研究ままた、②幼稚園の先生への霊的な養いであり、ノンクリスチャンへの先生への福音の場である「教師デボーション」でした)。ですから、QTの時間に別の教理的なことや、恵を求めていたわけです。

しかし、私の働きに「祈り」が少ないこと、神様の力がわずかにしか臨んでいないことを感じました。それは、自分が神様の力を受けずに奉仕していることでありました。聖霊に満たされて奉仕してない、ことでした。もちろん、まったく祈ってないわけでないのですが。しかし、その聖徒のために、伝道する魂のために、切なる祈りはなされていない状態でした。QTのセミナーをソウルで受けた時に、「始めの祈りが大切」であること、それは、自分の願いどおりでなく、「神様の御心のままに」という献身の祈りが勝負であることを聞きました。

しかし、この日のQTは「自分の考えと願いにとらわれて」QTに入って、そして、そのまま終わってしまったのです。今日の午後の時間に、奉仕の準備をしていたら「具体的な準備」が出来なくなって、祈りました。自分自身の力のなさ、祈りのなさに、失望する時間でした。もう、祈るしかありませんでした。自分の力や準備だけでは、何もできない、人の心は動かない、ことを思いました。聖霊様が働いてくださらなくては、密室での祈り無しには、その魂へのとりなしの祈り無しには、何も起こらない。長い時間祈れたわけでありませんが、結局「準備のための時間」をほとんど「祈り、賛美し」と時間を使う、ささげることになってしまいました。しかし、そこには神様の力が私に、そして奉仕する場に臨みました。人が心を開いて話してくれるのを感じました。自分の中に迷いが無く、語るべきことがあふれること、時間まで守って話すことができました。わざかでも祈ることからはじめます。

神の力が私に、兄弟姉妹に、まだ神様を知らない人に必要だからです。

月曜日, 11月 21, 2005

「忠実な3勇士」の姿から


15節:「ダビデはしきりに望んで言った。だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたならなあ」
16節:「すると三人の勇士たちは、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持ってきた」

今朝は日曜日、少しせわしい朝のQTをしようとしていました。そして、昨日から続くこの「ダビデの勇士」の内容。ううーん。今日は一体何を神様は語られるのか、という思いました。単なる武勇伝でないし。そしてこの日曜日の朝に心の落ち着きがありませんでした。今日の礼拝後のスケジュールである訪問は大丈夫か、青年のメンバーの状態はどうだろうか?という別の心配と、それを教会の行事をこなすような、心のなさと湧き出てこない感じが少しありました。

そこに、QTとして来たのは「ダビデのベツレヘムの門の井戸の水が飲みたい」という願い。そのために、この3勇士は命をかてて危険な目にあって水を取ってくる。私は思いました。あ、ダビデがそんな無茶をしきりに言わなければ、この3勇士を危ない目に合わせずにすむのに。しかし、私に今日示されたことは「3勇士が自らこれをしたいと思ってしたということ」でした。とってこいと命令されずとも、自ら進んで「主人の喜ぶこと、願い」を果たした「3人の忠実な勇士たち」の姿。それは、主人のために命をかけた姿でした。それは、献身の姿でした。数日前に参加したセミナーの牧師先生の言葉が思い出されました。「命をかけていない牧会は遊びだ」という言葉でした。

ああ、「わずかこんなことに思えても、命をかける牧会だ」人に言われて献身しているのでなく、神様に呼ばれて何も出来ないけど、自ら喜んでささげたはずだ、それを受けてくださる神様に感謝と喜びと讃美をささげずにいれない。「神様へのささげる祈りを持ってもう一度今日をスタート」しました。

①:朝のCS成人クラスの学びが、聖霊様の自由によって奉仕できました  信仰の大先輩の方ばかりのクラスですが(ほとんどお祖母ちゃんと呼ばれる方々)。  いつもなら、人を意識するのですが。

②:訪問は本当に良かったです。  教会の礼拝に体の不自由のために来られない方と短く礼拝をささげました。

③:青年の皆さんにとって一緒に仕える素晴らしい時間になったのでないでしょうか。  

こうして、ともに奉仕すること、愛を持って仕えると恵まれますね。主イエスのみなを讃美します。

水曜日, 11月 16, 2005

「自分病から開放されよう」

サムエルⅡ22:1-13

「主がダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを主に歌った」

1節ダビデは、逆境にあればあるほど、歌が歌えないときほど、いわれの無い苦しみの時に、賛美をする人でした。人は苦しみを味わったことが一番重要なのでなく、その中で神様に出会った、祈りに応えられる神様を知った、神様の力を体験したことが重要です。

最近、私は教会の方から「夜回り先生」と呼ばれる方の本を薦められて読みました。それについてコメントする気はここではないのですが、そこに、「最近の子どもは自分病だ」という文句があり、心に残りました。まさにそれは、「自分は最近どうだ」とか、「人の自分の扱いはどうか?」また「こんな奉仕でいいのだろうか?」など、数々の自分にこだわっている私がいました。

しかし、ダビデは「自分」でなく、「自分を取り囲む問題や人」でもなく、主を賛美しました。神様の力を、神様がどんなすばらしいお方であるか、告白したのです。それは、決して人の借り物では出てこない神様への賛美でした。大事なのは、「自分、自分という」自分病でなく、自分の問題でもなく、まず祈りと賛美が主なる神様に集中していくことが私の一番であるはずです。今日の神様の力を、私がこのような告白をさせてください、という祈りでスタートしていきます。

①今日の朝の教職者の祈りの時間が変えられました。人を意識している祈りでなく、神様へ集中する祈りとさせられました。ハレルヤ!②また、今日の私の奉仕のメインは水曜日の祈祷会に参加(何が任せられているのでなく)、そして教会の庭の木を切ることでした(これを読んでびっくるされるかもしれませんが)。神様への感謝と喜びのうちにできました。感謝です。いつもなら、こうはいかないところだったのに。

主に感謝と栄光をおかえしします。

火曜日, 11月 15, 2005

「神様の召しにふさわしい生き方」

第一サムエル19:35B-37節

今日のQTの箇所には「80歳のバルジライ」と「キムハム」という人が登場します。ダビデがマハナイムにいる間、王を養う富んだ者であり、年をとっていた、とあります。そこで、王は恩に報いようと「一緒にエルサレムにてあなたを養いたい」33節。言います。

35節「私は今、80歳です~中略」37節「このしもべを帰らせてください。私は自分の町で私の父と母の墓の近くで死にたいのです。しかしここに、あなたのしもべキムハムがおります。彼が王様といっしょに渡ってまいります。どうか、彼にあなたが良いと思われることをなさってください」

私にとって非常に大切な御言葉が与えられました。バルジライは「80歳」という年齢と「自分の町」にという言葉をダビデに話しました。それは、神様の召しにふさわしく生きる人生でした。年をとってダビデにささえられることは、どれほど、安心なことだったでしょうか?私の奉仕する教会には多くの年を召された方がいます。その多くは不安をかかえてられます。健康、さびしさ、そして生活上の問題などです。人生の後半部においてささえらえる保障は大きなものでないでしょうか。しかし、バルジライは自分の町に残り、キムハムを推薦しました。神様の召しにふさわしく自分のするべきことをする、それに徹したのです。また、神様の私に対する人生の計画には「年齢」に応じた時期があります。今すべきこと、しないでいいこと、将来すべきこと、見極めないといけません。

私は現在、35歳という年齢の中で何をすべきか、自分のいるべきところ、するべきことは何であるのか?決断するべきであることを祈りました。「神様、あなたの召しにふさわしく、その時にふさわしく生きさせてください」人の目でなく、判断によらず、環境に左右されるのでなく、「神様がいまわたしをこうおかれること、すべきことを確信して、自分の今起こっていることや、場所を解説するべきである」ということが示されました。

今日も、神様の召しにふさわしく生きる喜びに満たされる日になりことを信じて。

水曜日, 11月 09, 2005

「恵みとまことがある」


10月30日のQTは、ダビデがアブシャロムの反乱によって逃亡する内容でした。

そこに、外国人であるガテ人イタイが王位を捨て逃亡するダビデと共に行きたい、という個所がでてきました。

19節「王はガテ人イタイに言った」どうして、あなたもわれわれといっしょに行くのか。戻って、あの王のところにとどまりなさい。あなたは外国人で、それに、あなたは自分の国からの亡命者なのだから。」
20節b「恵みとまことが、あなたとともにあるように」
21節b「王様がおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべは必ずそこにいます」

神様の恵みと真理は何か、そこに私も共に歩むことは何か、と黙想しました。そこで、示されたことは「数日前にいただいたある誘い」でした。以前にお世話になった方から、ある働きに招待を受けることがありました。それは、具体的な条件や人の目には「有利な」と思える内容でした。しかし、そこで私に示されたことは「神様の今までの導きと違う」ということでした。そこで、私はあいまいにせずに「辞退の旨」をお伝えました。しかし、その後に「私は計算に合わないことをしたような」が気がしたり、そこのホームページから建築物や雰囲気を見るようなことをしていました。はっきり言って心が揺れたわけです。

しかし、ガテ人のイタイが「神の人とどこに行くのかわからない」のに、共に行った様に、ダビデが再び若いときと同じように「荒野に出て行った」ように、神様と共に歩む、神様以外に頼る方がいない、歩みをしたように、自分にも同じことが示されました。ダビデにとって王位でなく、神様と共に歩むことがはるかに大切であったのです。

人の働きや組織に頼りたい、ということは「神様が共におられることに自信がない」ことなわけで、自分にとって、それらのものを捨てる時になりました。揺れた心や縛られたものから自由になるときになりました。たとえ、どこに行くのか、何をするのか、分からなくても、神様の導きを受ける人生は素晴らしいですね。安心です。今日も、主イエスのみなを讃美して生きます。