坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 12月 31, 2005

悩む者には、不吉な日々、しかし、主イエスを喜ぶ者は

箴言15章15節「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である」

愛する皆さん、クリスマスはいかがお過ごしでしたか?私はクリスマスを準備している時に教会で私の祖母が亡くなった知らせを聞きました。年内の奉仕が終わって、新年になったら休みで実家に帰れるので、また祖母に会えるかな?と思っていたのですが、それは無理でした。韓国にいた時はほとんど会えなかったので9月に久しぶりに会ったのが最後でした。祖母はクリスチャンでありません。神様におゆだねします。

というわけで、お葬式のために26日から大阪に帰っていました。そして、水曜日に帰松(松山に帰ることの意味)。久しぶりのQTの分かち合いです。この世の中では、多くの苦難や痛み、病気、そして死ということがあります。また、将来への不安、現在の悩みがあります。松山に帰ってきて、教会の方々に病気の方が多く、また非常に心配するようなレベルであることを覚えて、少しびっくりしました。また、この年末私自身も、お葬式やいろんなことで眠れない日々を過ごしました。

そこに、この朝の御言葉です。ああ、悩みは「必ずしも状況によるのでない」のだ、と感じました。状況が悪くても喜べるし、逆に状況が良くても悩むことがある。そのキーポイントは主イエスにある、と思いました。長生きするから、幸福でないし、短い人生だから不幸ではない、のです(私の祖母は93歳でした)。そうだ、私はすでに主イエス・キリストに出会って、その人生をゆだねているんだ、すでに今、永遠の命を生きているんだ、神様に愛された人生を生きているんであって、そのすばらしい人生の計画を歩んでいるのだから、この今いる状況や日々自体が、大切な時間なんだ、と思いました。何だ、私は「毎日が宴会」(この言葉本当におもしろいですよね、韓国語も同じです。)を歩めるのに、何故「不吉の日々」を選ぼうとするのか、と思いました。

主よ、今日もあなたを喜びます、あなたと歩みます。わたしの喜びの根源の方よ、と告白し、賛美しました。今日もその恵の方を賛美して、喜んで生きます。その喜びの方を御言葉を通してあかしします。訪問するときも、神様の愛による喜びがながれますように、主よ、今日一日を導いてください。

火曜日, 12月 20, 2005

隣人を導く義人

箴言12:26「正しい者はその友を探り出し、悪者の道は彼らを迷わせる」(新改訳)
「義人はその隣人の導き手になる」(韓国語聖書:北野実訳)

今日も主イエスのみなを賛美します。もう、クリスマスが迫っていますね。今年は例年に無く、落ち着いてクリスマスを迎えようとしています。今朝のQTですが、またも日本語の新改訳聖書と韓国語の聖書がちょっと違う感じなので、書き出してみました。私は基本的に韓国語のリビングライフを使うのみなので、こういうQTの分かちあいを日本語で書く時に、えーっていう感じで驚いてしまいます。

さて、今朝の「義人はその隣人の導き手になる」ということですが、義人は自分の義でなく、キリストから与えられた義を持って、その隣人をキリストの義へと、命の道へ(28節)と導きます。このクリスマスの時に、最近の数年に無い落ち着いて時間を持てています。理由は、韓国のオンヌリ教会から日本の愛媛県松山市にある教会に移ったことが非常に大きいです。そして、クリスマスの働きの割合を伝道の大きな行事と言うよりは、信徒の方々との礼拝や養育というところから、伝道という働きにある気がします。もちろん、私が副教職者であり、主任牧師でないゆえに、教会のすでに決まっている方向性に、まずは仕えていくという理由もありますが。

今朝私に浮かんだ恵みは、自分に与えられたキリストの義を、キリストの十字架を高く掲げるということでした。私に与えられた「義」を次の方に伝え、「命」を持っていただくこと、そして「命」を更に次へと伝染していただくために仕えようという恵みが与えられました。今朝、キリストの義を持って周りの方を導く者としてしてください、という祈りと喜びと光栄がありました。このクリスマスの時が、何度も来ているありきたりのクリスマスでなく、毎年ごとに新しい「キリストの恵み」であり、「忙しいクリスマス」でなくて、「義なるキリストが私の心に来られた」ことを宣言したていきます。

今日のクリスマス家庭集会において「霊とまことをもって礼拝する」ことを伝えていきます。

土曜日, 12月 17, 2005

沈黙を守ること

箴言11章12節

「知恵の無い者は(韓国語聖書)~その隣人をさげすむ、明察を持つ者は静まる」
「隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし、英知のある者は沈黙を守る」

今朝も知恵書から、神様の恵みが与えられることを感謝します。少し、日本語と韓国 語で感じが違うので、 書いてみました。読まれる皆さんはどう思いますか?

さて、今朝の私がいただいて恵みは、神様が私たちに与えて下さる知恵を持って生きることは、神様にもちろん、隣人に喜ばれる生き方であることでした。まさに、私の今日必要な御言葉でした。

普段の私の生き方を見ている隣人、そして教会の方々。そこにどのような生き方をすべきか、今朝も教えられました。ちなみに、私は商店街のビルディングの4階に住んでいます。ですから、字義通りには隣の部屋の方はいないのですが。

さて、隣人の秘密を守ることの貴重さは、英知である、と聖書は語ります。韓国語では「静まる」という表現です。クリスチャン同士であっても、教会の中で あっても、「沈黙を守ること」が必要な時があります。人間は「沈黙を守ること」より、「話、行動し」てしまうことが、どれほど多いことでしょうか。 また、人の過ちや失敗をどれほどニュースのように話してしまうことが多いのでないでしょうか。 そして、人の判断を下してしまうことが、また多いことでないでしょうか。

しかし、まことの解決は、その隣人のことや問題を「静まり」神様の前に持っていくことです。どれほど大切なことでしょうか。知恵の究極の結果は「いのち」を得ます。それは、神様からの命です。それは、更に次へ、次の人へ生み出していく神様の命です。

昨日、最近私の行動に悩むことがありました。しかし、今朝御言葉をいただいて、確信を与えて下さったことを 感謝します。

今日一日も神様の命ある働きをすることを祈ります。

水曜日, 12月 14, 2005

「二つの招待」

箴言9章4,16節「わきまえのない者はだれでもここに来なさい」6節「わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」

お久しぶりです。最近のQTは箴言です。知恵は、自分に本当に欠けていることだな、とつくづく思わされます。今日の箴言9章には、「二つの招待」があります。それは、命を得る知恵からの招待と死者の霊からの招待です。怖いですね、本当に。誰でも死者の霊からの招待を受けたいとも、行きたいと思わないでしょう。

私だってそうです。しかし、7節「あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける」とあるように、「命を得る知識」からのの招待は、決して楽なものや、耳障りのいいものでないかもしれません。いや、かえって逆なことが多いでしょう。また、せっかく「命を得る知識」からの招待を受けても、その6節「悟りのある道をまっすぐに歩む」ことが、どれほど難しいことでしょうか?また、逆に死者の霊からの招待は「耳障りのいい、歩きやすい、甘く、うまく」感じ、見られるのものです。

私にとって、最近の「心とらわれている」ことは何か、それは「現状の中に楽をしたい」ことでした。問題起こることよりも、働きが命が無くても、まあいいか、しょうがない、ということ。そこまでしなくても、という神様からの押し出されることなく、上からの力をいただいていませんでした。命のある働きよりも、人間関係の安楽や、問題の起きないことや現状の生活の安定を欲していました。神様の前にベストを尽くして生きることや、難しい状況にあっても、「命ある働き」をすることを選ぶべきことであるを示されました。

神様、あなたのために何も出来ないものですが、「命の道を歩ませてください」それを選び、まっすぐ歩ませてください。今日も、神様からの「命の招待」が私へ、そしてその「神様の招きを伝えていきます」

土曜日, 12月 03, 2005

「神の言葉に頼る」

「しかし、私に聞き従う者は安全に住まい、わざわいを恐れることなく、安らかである」箴言1:33

世の中に生きる人にとって、「世の中の言葉」は威力のあるものに見えます。また、自分のいるポジションを危うくしたり、人間関係を考える時に、「人の言葉」は自分にとって聞くべきであるように、思えます。もちろん、常識や聞くべき言葉はあります。しかし、神様の御旨に反するようなこと、正義や愛に反することでありつつも、自分の地位や人間関係を考える時に、いかに「人の言葉」を恐れ(まさに)、神様の言葉を聞かずにないがしろにしているのか、と思います。それは、牧師であっても、決して人事でありません。私は人から離れて山の中に住んでいるのでありませんから。神様は、人からはなれて生きるのでなく、交わりの中でキリストの弟子として生きる祝福を与えてくださいます(松山市の市内の中心部に住んでいます。県庁と市役所の近くに)。

私にとってある働きが、人のプレッシャーやつまらない攻撃に当たることがありました。福音を伝える大切な働きが邪魔されるような感じを受けました。また、キリストの体なる教会が痛みを覚えていることを覚えました。そこで、私にとってまさに「人の言葉」が自分を恐れさせ、不安を感じさせることにありました。牧会において、人間関係を壊すことは決していけないことです。そのことが、私を恐れへと導きました(そんなことに導かれなくて良いって)。

しかし、このQTにおいて「神様の言葉」を聞く以上に、「すべての知恵のはじめである神様をおそれる」こと以外に、安心な道は無いこと、自分の立つ土台がないことを示されました。神様の言葉以外に第一となることはなく、神様の声を聞くことから、示された行動と言葉であること、その神様の心を持って立ち上がることを決心しました。

今日の人間関係は決して楽なことでありませんでした。私の心が傷つく、怒りを覚えるようなことでしたが、人間的な復讐心が起こることはありませんでした。ただ、神の正義が示され、なされることに、私が立つべきであることを思いました。

そこに、神様の下さる安らかな守りがありました。

やはり、朝の神様からの恵の御言葉は無くては、生きていけない、と思います。社会において「神様の御言葉」をもって生きるときに、どのような言葉が来ても、勝利があること、安全に住まうことができることを覚えました。