神の友として生きているのか?
「彼らは私に向かって、「私の神よ。私たちはイスラエルはあなたを知っている」と叫ぶが、イスラエルは善を拒んだ」(ホセア8:2)「彼らは王を立てた。だが、私によってでない。彼らは首長を立てた。だが、私は知らなかった。」(ホセア8:4)
愛する皆さん、ともに主イエスを賛美します。お元気ですか?私は5月30日に韓国に来て、新しい奉仕をしています。主に金曜日礼拝の説教と、留学生伝道をすることになっています。
ここまで、先週は一週間弟子訓練指導者セミナーがあり、日本から24名の教職者や牧師婦人の参加がありました。私は通訳で奉仕させていだきました。その前の週は、弟子訓練20周年記念フェステイバルがあり、とても恵まれる時間になりました(そのために、新しく引っ越した家で寝たのはまだ5日ほどです、でも、修養会場のほうがごはんがよく食べれますが)。弟子訓練というと強い、何か人を縛るようなイメージの言葉を思い浮かべますが、そうでなくて本当に人を自由にし、キリストに似せられていく幸福な恵みであります。また、一部のケースとして教職者が信徒を操縦し、支配するような、誤ったバイブルカルトのようなことがあるそうですが、そのためにサラン教会の弟子訓練が誤解されるような残念がことがあるそうです。自分の野心でなく、キリストの心を持って立ち上がり、仕えるのがキリストの弟子であり、まことのリーダーシップです。また、時々弟子訓練について書くことがあると思いますが、今日はこれくらいで。
さて、今週からいよいよ留学生伝道の奉仕をできる時間が与えられました。各キャンパスで聖書研究を中心にしたいと思います。愛する皆さん、祈ってください。私と祈りの同志になってください。今朝のQTは、イスラエルの民が「神を知っている」と言いつつも、神の知らない王や酋長を立てた、という箇所でした。神を知っている、と言いながらも善を拒むイスラエルの民、そして子牛や偶像を立てて、それに頼ろうともしているイスラエルの民の信仰。その結果は、実りの無い働きです。それだけでなく、神の裁きが臨みます。そこには、神と私の関係はありません。神が一人子であるイエスをこの地に下して、十字架にかけて許され、私を信じることにより友として下さった恵みはありませんでした。
今日、私に与えられた恵みは、神の友となることでした。それなくして、どうして留学生伝道をできるのか、と思いました。教会の方針だからするのでなく、仕える者が神の声を聞かずに、どうして行けるのか、と思いました。というのも、以前に居た韓国の教会でも、留学生伝道の働きがあったのですが、難しさを覚えることが多々ありました。もちろん、恵みもありました。しかし、ここでもう一度留学生伝道をすることに、心配や恐れを感じずにいれませんでした。しかし、今日の御言葉から、神が計画をもってここに私をいさせていること、私を呼ばれたことを感じました。教会や主任牧師に言われたからするのでなく、神の友として、神にどうしたらいいですか、と相談できる(祈る)人として立ちます。
留学生伝道について、私に与えられたビジョンは、以前の韓国での時代に苦労しながらも、また時に外国で孤独を感じながらも(家族がいるわけでないですから)、神は私を友とされた、という信仰による神との交わりでした。アブラハムは神を信じた、そして神はアブラハムを義とされ、友と呼ばれた。何ということでしょう。神はアブラハムを友とされたように、北野実を友と呼ばれるのです。このことをもって伝えたいと思います。
自分探しに来ている留学生や、人生の目的を探しに、ハングルの勉強に来ている留学生に友なる神を伝えていきます。
LAKEWOOD CHURCHの賛美に I AM FRIEND OF GOD という曲があります。神は私を友と呼ばれるアイデンティの、信仰の告白です。良かったら聞いてみてください。
愛する皆さん、ともに主イエスを賛美します。お元気ですか?私は5月30日に韓国に来て、新しい奉仕をしています。主に金曜日礼拝の説教と、留学生伝道をすることになっています。
ここまで、先週は一週間弟子訓練指導者セミナーがあり、日本から24名の教職者や牧師婦人の参加がありました。私は通訳で奉仕させていだきました。その前の週は、弟子訓練20周年記念フェステイバルがあり、とても恵まれる時間になりました(そのために、新しく引っ越した家で寝たのはまだ5日ほどです、でも、修養会場のほうがごはんがよく食べれますが)。弟子訓練というと強い、何か人を縛るようなイメージの言葉を思い浮かべますが、そうでなくて本当に人を自由にし、キリストに似せられていく幸福な恵みであります。また、一部のケースとして教職者が信徒を操縦し、支配するような、誤ったバイブルカルトのようなことがあるそうですが、そのためにサラン教会の弟子訓練が誤解されるような残念がことがあるそうです。自分の野心でなく、キリストの心を持って立ち上がり、仕えるのがキリストの弟子であり、まことのリーダーシップです。また、時々弟子訓練について書くことがあると思いますが、今日はこれくらいで。
さて、今週からいよいよ留学生伝道の奉仕をできる時間が与えられました。各キャンパスで聖書研究を中心にしたいと思います。愛する皆さん、祈ってください。私と祈りの同志になってください。今朝のQTは、イスラエルの民が「神を知っている」と言いつつも、神の知らない王や酋長を立てた、という箇所でした。神を知っている、と言いながらも善を拒むイスラエルの民、そして子牛や偶像を立てて、それに頼ろうともしているイスラエルの民の信仰。その結果は、実りの無い働きです。それだけでなく、神の裁きが臨みます。そこには、神と私の関係はありません。神が一人子であるイエスをこの地に下して、十字架にかけて許され、私を信じることにより友として下さった恵みはありませんでした。
今日、私に与えられた恵みは、神の友となることでした。それなくして、どうして留学生伝道をできるのか、と思いました。教会の方針だからするのでなく、仕える者が神の声を聞かずに、どうして行けるのか、と思いました。というのも、以前に居た韓国の教会でも、留学生伝道の働きがあったのですが、難しさを覚えることが多々ありました。もちろん、恵みもありました。しかし、ここでもう一度留学生伝道をすることに、心配や恐れを感じずにいれませんでした。しかし、今日の御言葉から、神が計画をもってここに私をいさせていること、私を呼ばれたことを感じました。教会や主任牧師に言われたからするのでなく、神の友として、神にどうしたらいいですか、と相談できる(祈る)人として立ちます。
留学生伝道について、私に与えられたビジョンは、以前の韓国での時代に苦労しながらも、また時に外国で孤独を感じながらも(家族がいるわけでないですから)、神は私を友とされた、という信仰による神との交わりでした。アブラハムは神を信じた、そして神はアブラハムを義とされ、友と呼ばれた。何ということでしょう。神はアブラハムを友とされたように、北野実を友と呼ばれるのです。このことをもって伝えたいと思います。
自分探しに来ている留学生や、人生の目的を探しに、ハングルの勉強に来ている留学生に友なる神を伝えていきます。
LAKEWOOD CHURCHの賛美に I AM FRIEND OF GOD という曲があります。神は私を友と呼ばれるアイデンティの、信仰の告白です。良かったら聞いてみてください。