坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 8月 31, 2013

イエスの愛に結ばれた人生

ピレモンへの手紙:使徒パウロは、彼の愛する同労者へ手紙を書きます。目的は交わり、そして奴隷であったオネシモのことで彼を赦し、開放してもらうことでした。その中で、使徒パウロは
自分のことを「キリストの囚人」と紹介します。彼が犯罪を犯したのでないのは明らかです。政治的にも、社会的にも、おまけに宗教的にも罪を犯しませんでした。彼が縛られているのは、ただイエス・キリストの十字架によるものです。彼の人生を進めるのは、イエス・キリストの愛です。イエス・キリストの愛に結ばれて囚人になったのです。そのことを彼は誇ります。それは、強制でなくてイエスの愛に対して自ら選び、進んだ道でした。今日、主イエスの十字架の愛で結ばれる人生を歩んでいきます。主よ、そんな人生に導き、示してくださって、感謝します、賛美します。

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木曜日, 8月 29, 2013

静まり待つ理由

ハバクク3;16,18節(QT本文11-19)16節「私は聞き,私のはらわたはわななき,私のくちびるはその音のために震える.腐れは私の骨のうちに入り,私の足もとはぐらつく.私たちを攻める民に襲いかかる惱みの日を,私は靜かに待とう.」18節「しかし,私は主にあって喜び勇み,私の救いの神にあって喜ぼう. 」 私たちは、どうやって自分をおとしめる、脅迫する、攻撃する人に対して「静かに待つ」ことができるでしょうか?①主の前に正しく祈り、訴えることです。それは決して自分を高慢に出来ません。なぜなら、全てをご存知な神様の前に嘘はつけないからです。それは非常に危ないことです。謙遜にありのままに神様の前に、いや十字架のイエスによって神様の前に出るしかないのです。②神様の民として生きるものに訴えこと、神様の救いがきます。神様のものでないなら自分たちはどれほど危険なことでしょうか。今までどれほど、神様が救いを私に下さったことでしょうか。神様に感謝し、賛美します。③そして、不必要なことをしないこと、人間に頼るのでなくて、神様に向かっていきます。④神様の偉大さ、救い、そして私のために闘ってくださる方であることを経験することです、その時に静まり、主を喜びながら待つことが出来ます。今朝、もう一度、ハバクク2;4「見よ. 心のまっすぐでない 者は 心高ぶる. しかし, 正しい 人はその 信仰によって 生きる.」にたっていきます。主よ、助け、導いてください。

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主の答えに期待せよ

ハバクク3;8節(QT本文1-10)「主よ. 川に 怒りを 燃やされるのですか. あなたの 怒りを川に向けられるのですか.それとも, あなたの憤りを海に向けられるのですか. あなたは,馬に乗り,あなたの救いの戦車に乗って來られます.」QTをしながら、ハバククって、カッコイイ、素敵な人だなと思いました。大変な中で、厳しい中で、人に文句を言うのでなくて、不平を抱いて人格がゆがむことなく、大変な時に堂々と、力強く主なる神様の前に祈ります。何よりも、神様を正しい意味で畏れ、その神様の前に訴えます、祈ります。今朝、思いました。私はどれほど、神様の力を知っているのか?過去になされた神様のみわざを覚えて、未来への約束に変えているのか?神様が必ずなされることを期待して祈っているのか?自分の感情や自分の正義感でない、全能なる神様のうえに自分の人生をおきたい、と思います。あなたに私の人生、奉仕、人間関係、おいていきます。それこそ、主の解決、答えをもらう人生だと思います。主の救いの戦車をまちます。主よ、みわざをなさってください、しもべは期待し待ちます。

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土曜日, 8月 24, 2013

Actsフィナーレは宣教し続ける

使徒行伝28章(23-31)「そこで,彼らは日を定めて,さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た.彼は 朝から晩まで語り続た.神の国のことをあかしし, また,モ ― セ の律法と 預言者たちの 書によって, イエス のことについて彼らを說得しようとした.」
使徒行伝のフィナーレは唐突です、パウロがローマについて相変わらず伝道した、そしてイエスを伝え、教えた。その後の彼の人生は?書かれていません。その事は一番神様が伝えたい、ということでないからです。大事なことは何でしょうか?イエスの事を伝えたことです。それは、今も伝え続けられていることです。パウロは「朝から晩まで語り続けました」そのような情熱が私にあるでしょうか?そのように「おおぜいで」たずねてこられて福音を伝えるチャンスを生かして、伝道して、生きているでしょうか?まだまだだな、と思います。当時の中心であり、心臓部であり、盈虚力を持ったローマで伝道しました。私もこのLAで朝から晩までイエスを伝える情熱、伝道をしたい、大勢の人が尋ねてくるミニストリーをしたい、と思いました。神様の福音を伝えるためにローマへ苦難の中で来たパウロはその御心を行い、語ります。この語れたユダヤ人の中で、①イエスを信じたユダヤ人もいたし、②信じなかったユダヤ人もいました。そこで、パウロは27節「この 民の心は鈍くなり,その耳は遠く,その目はつぶっているからである. それは, 彼らがその目で見,その耳で聞き,その心で悟って,立ち返り,わたしにいやされることのないためである」28節「ですから, 承知しておいてください. 神のこの 救いは, 異邦人に 送られました. 彼らは, 耳を 傾けるでしょう. 」と宣言します、普通なら人間関係上、角が立つ、でないけど、言わないことです。なぜでしょう?それは、世界福音へ行く神様の心を宣言するためです。ACTSは世界宣教される、そこで、次世代の宣教師たち、クリスチャンたちがヨーロッパ、アジア、アメリカ、日本、韓国へ宣教し続けることで終わります私たちもACTSから宣教のバトンタッチを受けています。北米に日本人宣教に来て、2年半ほど、そこで使徒行伝のQTをするのに神様の恵みを感じます。思えば、神様に賛美と祈りの中でいただいた御言葉でした。LAで、北米にACTSのバトンを持って宣教していきます

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火曜日, 8月 20, 2013

神様のリーダーは投げ出さない!


使徒行伝27章22節「しかし, 今,お勸めします.元氣を出しなさい.あなたがたのうち,いのちを失う者はひとりもありません.失われるのは船だけです. 23節「昨夜, 私の主で,私の仕えている神の御使いが,私の前に立って, 」24節「こう 言いました. 『恐れてはいけません. パウロ . あなたは必ずカイザルの前に立ちます. そして,神はあなたと同船している人々をみな, あなたにお与えになったのです. 』 25節「ですから, 皆さん.元氣を出しなさい.すべて私に告げられたとおりになると,私は神によって信じています.」使徒パウロの忠告を受け入れなかった人々は、船が進まず、さらにユーラクロンにあい、暴風によって船が進めず、積荷を捨て(自分の大事なものを投げ捨てて)、船具を捨て(自分で進むことを放棄したこと)食事(生きるの望みを置いて)もとりません。パウロにとってどんな思いだったでしょうか。しかし、パウロはこの状況ののなかで神様の声を聞き、人々を励まします。普通なら、私の助言を聞けばこのようなことにならなかった、とか。もはや彼らのせいでだめだ~とか思わないでしょうか?私ならそうです~しかし、彼は神様の声を聞き、「恐れるな!私が共にいる、そしてローマのカイザルの前に立つ」ことを宣言されます。それを人々に伝えて、食事を取り、元気をだせ!と励まします。目の前にある状況は未だに動いてません、具体的に何か動いているのでありません。しかし、信仰を持って動くのが、人々を諦めずに導くのが、勧めるのがリーダーです。そうでないと信仰でありませんし、面白くないでしょう。今日、投げ出さないリーダーに励ますリーダーになることを、歩んでいきます。主よ、恐れるな!という神様の言葉の上にたたせてください。

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日曜日, 8月 18, 2013

どんな相手にも真摯に福音を語れ!

使徒行伝26章25節「するとパウロは次のように言った.「フェスト閣下、気は狂っておりません.私は,まじめな眞理のことばを話しています. 」
使徒パウロは、アグリッパ王と総督フェスとの前でイエスの福音を伝えた時に反応は①総督はフェスとは「博学が狂わせている」と(どう考えても、シンプルな福音しか語っていないのに博学のせいにするなんて、本当に日の顔色だけをみている、まじめに人生の問題にぶつかろうとしない)ことを感じます。②アグリップ王は、少しの言葉で「私をキリスト者にしようとする」と警戒し、気をつけます。しかし、少しは真摯な姿勢があります。そして、パウロは③相手がどんな反応であろうが、そして自分がどんな状態(無罪でありつつも、鎖につながれていようが)であろうが、イエスの福音を語り、真摯に福音を伝え続けようとします。果たして、私はいつも、どこでも、どんな相手にも真摯に福音を伝えようとしているでしょうか。この相手は難しいとか、パウロは言いませんでした。また、自分は監獄にいるから、とも言いませんでした。その結果、王に権威者に、そしてローマまで宣教することになったのです。今日、このみ言葉を持って行動したら祝福がありました。神様に栄光をささげます。

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金曜日, 8月 16, 2013

天からの啓示を見たら

使徒行伝26;18「それは彼らの目を開いて, 暗やみから光に,サタンの支配から神に立ち返らせ,わたしを信じる信仰によって,彼らに罪の赦しを得させ, 聖なるものとされた人々の中にあって御國を受け継がせるためである. 』 使徒パウロはアグリッパ王たちの前で証します。それは、すごく正直な、ストレートな証でした。自分がイエス・キリストを迫害したものであったこと、そんな自分が天からの啓示によって「自分の罪に、自分の間違った方向への情熱」からまことの神様を迫害したことがわかったこと、そんな自分が救われて、イスラエルの民のために、異邦人のために救いを伝える人になったことを話します、果たして、私は、私たちは以前の自分の姿、罪ある自分の姿をも思う時に本当の謙遜さを持つのでないでしょうか。自分が苦難になう時に不平や不満を言える身分でないことを思うのでないでしょうか?そんな自分が聖なる者になって、神様の国を受け継ぐものになったことを思うなら、何が言えるでしょうか?賛美と喜びしかないのでないか、と確信します。私の感情は瞬間的に揺れます、しかし、闇から光の人生へ、神様の国を建てるもの、引き継ぐものになったことを感謝し、賛美して歩みます、神様の助けを得て、福音を証します

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木曜日, 8月 15, 2013

夜も昼も熱心である理由

使徒行伝26;7-8「私たちの 十二部族は, 夜も昼 も熱心に神に仕えながら,その約束のものを 得たいと望んでおります.王よ.私は,この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです. 」今朝のQT箇所からの恵みは、①パウロがアグリッパ王に弁証をとしてイエスを証します。②夜も昼も熱心に神様に仕える、③約束のものを目指して生きる(神様がイエス・キリストを通して死者をよみがらせる、どんな過去があっても救われる)、です。私は昼も夜も熱心に主イエスに仕えているでしょうか?しかも、それが、目標のない、希望のない熱心でなくて、はっきりとして希望があるからこそ仕えているでしょうか?パウロは二年を待たされてアグリッパ王たちにか証をします。待たされたからこそ、3度目の証が出来ます。しかも、王様にです。考えたことがあるでしょうか?政治家、リーダー、社会的に影響のある人、芸能人などに証をしたことや証をすることを祈ったことがあるでしょうか?相手が聞く聞かないは別としてです。苦難を通して出なければ、時間をかけて出なければ、出来ない福音伝道もあります。今日、夜も昼も熱心に生きる神様の約束、希望を持って歩みます。

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水曜日, 8月 14, 2013

神様の心を正確に読む人の祝福

使徒行伝25;25節「私としては,彼は死に当たることは何一つしていないと思います. しかし,彼自身が皇帝に上訴しましたので,彼をそちらに送ることに決めました」26節「ところが, 彼について, わが 君に 書き 送るべき 確かな 事がらが 一つもないのです. それで 皆さんの 前に,わけてもアグリッパ王よ,あなたの前に,彼を連れてまいりました.取り調べをしてみたら, 何か書き送るべきことが得られましょう.」今日の聖書箇所でやはり語られていることは「ユダヤ人のねたみ」からパウロは訴えられたこと、それは「無実である」ことです。しかし、総督フェスとは正しいことを知りつつも、無罪釈放しません。ユダヤ人の歓心を買うためです(世の中の歓心を買うためです、このようなことが私たちの中にないでしょうか?)もし、私がパウロなら、いらいらしたり、早く釈放されたい、もしくはローマへの証をしたい、 とか思わないかな?と思いました。しかし、そのようなことは聖書に書いていません。それは、一番大事なことでないからです、神様の語りたいことは他にあるからです。神様はこのような状況を通して、事件を通して、あなたはどのように、どんな霊的な目で事件を見ますか?状況を霊的に見れますか?そして、パウロのように福音を証しする場所、チャンスとして反応できますか?神様の心を読めますか?といわれる気がします。今日、神様の福音のチャンスの場所を見ていきます、主よ、私の目を開いてください。

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土曜日, 8月 10, 2013

最も安全なところは主と共におられところ

使徒行伝23;29「その結果,彼が訴えられているのは, ユダヤ人の律法に関する問題のためで,死刑や投獄に当たる 罪はないことがわかりました. 」
今朝のQT箇所をリビングライフは、「最も安全なところは主と共おられところ」とつけていました。本当にその通りで、とても気に入りました、何よりも励まされました。私たちは苦難にあると、人間的な計算で動きます。しかし、神様の御心を行う人を主は守られます。神様の人生を歩む人にとって大事なのは結果でなくて、プロセスです。主が苦難の中にも共におられる、その安全さを味わうことが出来ます。いつから、私たちは結果だけで生きるようになったのでしょうか?本当は、人生を味わうことは大変な時も、困難な時も、まだ前が見えていないときも、もちろん、楽しいときもそうでないでしょうか?神様は言い訳もせずに、神様の事を証し続けるパウロの無罪(国、社会、法律)、を証明され、かえってユダヤ人たちの宗教戦争(怒り、妬みから来る殺人さえ)明らかにされます。そして、ローマ人を動かし、緊急の守りを与えられます、主のみなは強き砦、駆け込むものは守られる!主を賛美します

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水曜日, 8月 07, 2013

今私がココにいる理由

使徒行伝23章11節「その 夜, 主が パウロ のそばに 立って, 「勇氣を 出しなさい. あなたは, エルサレム でわたしのことをあかししたように, ロ ― マ でもあかしをしなければならない. 」と 言われた」使徒パウロは千人隊長により、議会にたたされましたが、「いきなり打たれたり」不法な裁判にあいました。しかし、彼は恥じることのない完全な良心を持って証し続けました。打たれて「白い壁」と言ったら、大祭司であることを聞き、「指導者を悪くいっていはいけない」とあると書いてある、とすっとんきょうなくらいに簡単に認めます。正直です。彼らが間違っているのに、自分にもMISSがあると思えば認めます。神様はそのような状況のパウロに[勇気を出しなさい、私の証をエルサレムでしたように、ローマでもしないと行けない]と語られます、今朝、思いました。何故、パウロはこのような不法な裁判、そして苦しい状況、プレッシャーの中でもぶれずに、もういいや、と投げ出さずにいれたのか?それは、今何のためにここにいるのなか?神様の声を聞いたからです。だから投げださいのです。神様はパウロの宣教のたびに語られます。どれほど、大きな力でしょうか。今朝、TORRANCEにいる理由を、南加州で弟子を作っていくミニストリーをします。勇気を出して、今日を歩み続けます。

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火曜日, 8月 06, 2013

あなたの頼っているものは何か?

使徒行伝22章22節「人々は,彼の話をここまで聞いていたが,このとき声を張りすると,上げて, 「こんな 男は, 地上から 除いてしまえ. 生かしておくべきではない. 」と 言った. 28節 千人隊長は, 「私はたくさんの 金を 出して, この 市民權を 買ったのだ. 」と 言った. そこで パウロ は, 「私は 生まれながらの 市民です. 」と 言った
天国の福音を語って使徒パウロに向かって、①群集たちは「わめきちらし」生かしておくべきでない、と言いました。これって、個人ならいえることでしょうか?一人でこのような行動を人の前で出来るでしょうか?人を殺すとか、着物を放り投げ、チリを撒き散らし、など。それは社会の中の群集に紛れ込むからできることです、責任の無い人生、行動をとっていることです。②そして、市民権を買って手に入れたローマの千人隊長です。彼はパウロがローマ市民権をもっていると知らない前は裁判もせずに、「むちで打とう」としました。騒動が起こった、それだけで自分の責任をとらずに、困ったことが起こったから、というだけで人のせいにしました。かえって一方のパウロです。彼は既に天国の福音を語りました。しかし、彼らは聞く耳を持たず、拒否することを決めていたのです。それは、自分の地上の生活、ポジションにだけ彼らが重きを置いたからです。そこに、彼らの人生を守るものがると勘違いしたのです、福音が語られたのに。群集に隠れていれば大丈夫と思ったのです。ローマ市民権を買ったから大丈夫、と思ったのです。今日パウロはローマ市民権に頼っていたのではありません。天国の市民であることに自分のアイデンティをもったからこそ、ローマ市民権者であることを語れたのです。私は、もしくは私たちは、何か目に見える部分で頼れる部分を探しやすいものです。しかし、これで安心と、目に見える部分(必要なものはありますが)にだけ頼るなら危ないものです。天国の価値観で今日私の価値観、教会の奉仕考えて生きます

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