坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 8月 11, 2016

自分の割り当ての地の中に人を住まわせるユダ部族、そして住むシメオン(JOSHUA:ヨシュア19;1-23)

19:1 第二番目のくじは、シメオン、すなわちシメオン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地は、ユダ族の相続地の中にあった。19:9 シメオン族の相続地は、ユダ族の割り当て地から取られた。それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。
シメオン部族の割り当て地は、ユダ部族の割り当て地の中にあります、これは。すごいことです。彼らの地を過ぎないで、外に出ることはできないのです。それは、ユダ部族との関係もよくないといけないし、ユダ部族も受け入れてくれないといけない関係です。これは、リビングライフの解説にもあるように、バアル・シメオン事件の(民数記25;14)人数が最も少ない部族になり、ヤコブの遺言どおりに(創世記49;7)これもすごい!ですね、領地って人生の非常に重要な部分で、微妙な部分です。これは、ユダ部族の受け入れる姿勢、そして逆にシメオン部族の受け入れていただく姿勢にも、非常に大きなものを感じます。今日、適用として隣人の関係をしっかりもっていきます、まずは、私たちの家族、友人、そして周囲の教会、日本人社会ともって行きます。

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木曜日, 8月 04, 2016

信仰生活は漠然としたものでない!(ヨシュア15;20-63)

15:1 ユダ族の諸氏族が、くじで割り当てられた地は、エドムの国境に至り、その南端は、南のほうのツィンの荒野であった。
15:2 その南の境界線は、塩の海の端、南に面する入江から、
15:33 低地では、エシュタオル、ツォルア、アシュナ、
15:47 アシュドデと、それに属する村落、すなわち、村々。ガザと、それに属する村落、すなわち、村々。エジプト川と大海までとその沿岸。
15:48 山地では、シャミル、ヤティル、ソコ、
15:61 荒野では、ベテ・ハアラバ、ミディン、セカカ
15:63 ユダ族は、エルサレムの住民エブス人を追い払うことができなかった。それで、エブス人はユダ族とともにエルサレムに住んでいた。今日もそうである
今日のQTは、ユダ部族の相続地のリストでした、一番難しい、面倒くさい、と思えるかもしれないQT,聖書箇所ですが、もしも、自分が与えられる土地だったり、家だったり、親戚の、友人の土地だったり、したらどうでしょう。その気持ちを持って読んでみました。ただ、流さないように、①日本語の地名のほかに英語で地名を書き写しながら、②南と西のFOOTHILLSと、沿岸まで、簡単に地図を書きながら、③村と町の数をCHECKしながら、④自分の知っている地名を逃さないように、QTしました。そこで、感じたのは、信仰生活は漠然としたものでなくて、また概念や思想的なものでなくて、現実的なものである、ということでした。自分が相続地を受け取る、なら必死になって求めて、生きておられる神様を現実に、肌で感じたのでないでしょうか?今日、主の前に具体的に私の相続地を求めていきます。主のリバイバル、教会の祝福を求めます。また、ユダ部族は、エブス人を追い払えなかった、とあります。それは、リビングライフにあるように巨人であったアナク人を追い張らいながらも、エブス人を追い出せない?(もしくは、追い出さなかった?)おかしな問題がありました。ユダ部族は、ほかの部族よりも熱心に征服をして約束の地を得ました。しかし、わずかな、小さい部族を追い出さなかったことが、あとでつまずきになります、しかも、これはエルサレム、将来に、主を礼拝する首都になる場所でした。わずかな、これくらいが後々につまずきになります、今日、つまずきの原因を、少しくらいの不従順はいいさ、をやめます。100%従順、純粋を目指しまます。

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主が人の声を聞かれる(ヨシュア10;1-14)

10:8 主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。」
10:12 主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」
10:13 民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。
10:14 主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。
​エモリ人の5人の王たちが、エルサレムの王の同盟の要請にこたえてヨシュアとイスラエルの民たちを攻撃してきます。人は、力に、権勢に、大きさに、数に恐れます、そのために。志のない同盟をします、力のない同盟をします。力を数に自分の勝負を頼ります。しかし、神様の人は神様にのみ頼ります。ヨシュアは神様から再度、「恐れるな」!というメッセージを受けます。そして、戦いにおいて神様はイスラエルが激しく、打った上に、「天からの石を降らせ」イスラエルの討った数よりも多くの数を討たれます。そして、ヨシュアが主に語り、日がギブオンでとまり、月がアヤロンの谷を止める、という天地創造以来の時間の秩序と、季節、一日の時間の過ぎることを、また一部の地域での変化をなされます、そうです、主はイスラエル(戦う神、です。私たちのために!)自然も、摂理も変える神様を願う、語る、聖霊に満たされたヨシュア、今日、トーランスの中で、主が働かれることを信じ、ともに戦ってくださることを信じ、私たちのために、自然も、摂理さえも、帰る主に願い、祈り、叫び、伝道していきます。この地を、約束の地を、TORRANCEをサウスベイ、LA,南カリフォルニアをとらせてください、人でなくて、力でなくて、神様を頼みにして、主の僕、民のために、約束のために、天変地異までおこす、神様の奇跡を私の中に、教会の中に与えください。

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時を逃すな!(ヨシュア10;15-28)

10:18 そこでヨシュアは言った。「ほら穴の口に大きな石をころがし、そのそばに人を置いて、彼らを見張りなさい。
10:19 しかしあなたがたはそこにとどまってはならない。敵のあとを追い、彼らのしんがりを攻撃しなさい。彼らの町にはいらせてはならない。あなたがたの神、主が彼らをあなたがたの手に渡されたからだ。」
ヨシュアたちは、勝利の後で、①5人の王たちをほろ穴に閉じ込め、②続いて、敵たちのしんがりを追いかけ、攻撃し、町に入らせないようにします。それは、今、何をすべきか、ということでした。戦争は今、しかありません。このチャンスを、今逃すと次はありません。今日の黙想は、1)今すること、2)今すべきことを、時を流すな、ということです、ヨシュアたちは、全滅させたの後に戻って、王たちを倒します。今日、主にあるチャンス、きょうすべきことをしていきます。

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神様の言葉に私の人生は全部征服されたか!?(ヨシュア10;29-43)

10:30 主が、その地も、その王も、イスラエルの手に渡されたので、彼は、この地とその中のすべての者を、剣の刃で打ち、その中にひとりも生き残る者がないようにした。彼はエリコの王にしたように、その王にもした。
10:31 ヨシュアはまた、全イスラエルを率いて、リブナからラキシュに進み、それに向かって陣を敷き、それと戦った
10:32 主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので、彼は二日目にそれを取り、それと、その中のすべての者を、剣の刃で打った。すべてリブナにしたとおりであった。
​ヨシュアたちとイスラエルは、カナンの南部の征服戦争を終えて戻ります。その時に、繰り返して私の心に残ったみことばが「聖絶」した、という言葉、また一人も生き残るものがないようにした、すべて、~したとおりであった、という言葉でした、ここで聖絶について話す気はありませんが、すべて「そのとおりにした」また、例外なくやってきた、という言葉が心に残りました、人は、これくらい、今日くらい、いいじゃない、ということが起こらないでしょうか?また、今日に限ってしなかった、できなかった、ということが出てくるのがあるのでないでしょうか?しかし、ヨシュアとイスラエルたちはそのようなことをしませんでした。悪い意味の例外のない、すべてを神様のいわれたとおりにする、ことでした。それは、全部そのとおりにしないとイスラエルは先に進めないからでした、自分たちの力で勝利しているのでなくて、神様がともにいることで勝利しているのです。従い続けることで、勝利しているのです。そうでないと、AIのような敗北が続きます。何度も繰り返します、いや、繰り返すどころか、約束の地に入ることができません、逆に追い出されます。今日のリビングライフの表題は、神様の言葉に征服されれば、勝利する人生になります、でした。本当に素敵な表題と思いました。今日、主のみ言葉に例外なく、征服されることを祈ります、自分がこの部分は、別ですとか、自分で考えて好きにします、でなくて、神様のみ言葉に征服される、全部!祝福を得たいと思います。

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一言も逃さないから恐れない(ヨシュア11;1-15)

11:6 主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らをことごとくイスラエルの前で、刺し殺された者とするからだ。あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない。」
11:9 ヨシュアは、主が命じたとおりに彼らにして、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼いた。
 11:15 主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりに行ない、主がモーセに命じたすべてのことばを、一言も取り除かなかった。
ハッオルの王ヤビンは、方々のカナン人、エモリ人、へて人、ペリジ人と、エブス人たちと連盟を結び、イスラエルと戦います。全陣営を率いてきた彼らの戦いを前にして、主はヨシュアに「彼らを恐れてはならない、あすの今頃、わたしは彼らをイスラエルの前で刺し殺されたものとするからだ」と、勝利を約束されます。しかし、それには条件があります、勝利の後に「彼らの馬と戦車」の徹底的な処分を言われます。今朝、黙想しました、主はなぜ、ヨシュアに毎回、「恐れるな!」といわれるのか?毎回、新しい敵に、おびただしい敵の数、予想のできない戦い、そのたびに、恐れるヨシュアに、神様はそのたびに、恐れるな!神様があなたの手に敵を渡す、といわれたのでないか?と黙想しました。
はたして、私はどうでしょうか?すでに神様の勝利をもらっていても、新しいチャレンジに、新しいことに、やはり恐れます。それは、私の力でしようとするからです、それでは、勝つことができません。その時に、どうしたらいいのでしょうか?神様の命令を受け取ることです。自分の現実の中に、神様の命令、約束、力が21世紀の私の中に来ることです。ヨシュアは、イスラエルが勝利にしたときに、神様のいわれたとおりにします。一人も生き残ることがしないようにしたとか、馬のハムストリングを’切ったとか、戦車を焼いたとか、それらは、非常に大事なことでした。神様の言われたことを一言も逃さないから恐れがありません、何も隠すものが、心に後ろめたさがありません。罪への誘惑、前のカナン人たちの影響が残らないようにしました。また、ヨシュアはこれら一言ものがさないようにしました。今日、主の前に一言ものがなさい、信頼を持ってしたがっていきます。

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