坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 12月 06, 2014

聖霊による祈り(ローマ人の手紙18章24-27節)北野実牧師


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勝利の歌を歌う秘訣(ローマ人の手紙8章17-24節)北野実牧師


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ローマ人の手紙8章12-17節百戦百勝の秘訣:北野実


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ローマ人の手紙8;9-10節ジュビリー教会:牧師北野実


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ローマ人の手紙8章1-2節 PASTOR Minoru Kitanoジュビリー教会(南カリフォルニア州トーランス)


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torrance jubileeローマ8章3-8節キリストが私の中でいき生きる


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ローマ人の手紙7章14節ー25節:北野実牧師 JUBILEE CH(LAカウンティ)


創世記1章1節、NEW CREATIONジュビリー教会牧師:北野実


聖霊が準備された創造、創世記1章2節 北野実


創世記1章3-5節あなたの人生に光があれ


奇跡が当たり前になる人生創世記1章6-8節:北野実ジュビリー教会


地と海の創造(創世記1章9-13節)北野実牧師


金曜日, 12月 05, 2014

信仰の星で輝け(創世記1章14-25節)北野実牧師


創造のクライマックス 人間(創世記1章26-31)北野実牧師


2014 10 05ジュビリー教会「管理人の人生」創世記1:26-31


2014 10 12ジュビリー教会「一週間のリセットボタン」創世記2:1-3


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創世記2章8-17節、エデンの園(喜びの人生)を回復せよ、北野実牧師 ジュビリー教会


TRUE LOVE 創世記2章18-22節 北野実牧師 ジュビリー教会


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22. 神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。23. 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
24. それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。25. 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
<創世記 2:22-25>
22.여호와 하나님께서 아담에게서 취하신 갈비뼈로 여자를 지으시 고 그녀를 아담에게 데려오셨습니다. 23.아담이 이르되 이는 내 뼈 중의 뼈요 살 중의 살이라 이것을 남자에게서 취하였은즉 여자라 부르리라 하니라
24.이러므로 남자가 부모를 떠나 그의 아내와 합하여 둘이 한 몸을 이룰지로다 25.아담과 그의 아내 두 사람이 벌거벗었으나 부끄러워하지 아니하니라
<창세기 2:22-25>

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収穫感謝のときに信仰の先輩から学ぶもの 第一テサロニケ5;18 ジュビリー教会 牧師北野実

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。<第Ⅰテサロニケ 5:18>
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。2. 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
<ヘブル 11:1-3>
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 <ヘブル 12:2>

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神様のビジョンでいきよ ヨセフの人生から学ぶ ジュビリー教会 牧師 北野実

神様のビジョンでいきよ ヨセフの人生から学ぶ ジュビリー教会 牧師 北野実北野実牧師

メッセージの第一ポイントのみ言葉です。
5. あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。6. ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。
7. 見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」
8. 兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。
9. ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」と言った。
10. ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」
11. 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。 <創世記 37:5-11>
メッセージの第二ポイントのみ言葉です。
26. ユダは兄弟たちに言った。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。27. それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」兄弟たちは、これを聞き入れた。 <創世記 37:26ー27>
創世記39;1-5、
39:1 ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
39:2 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。
39:3 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。
39:4 それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。
39:5 主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。
創世記39章17-20節(TEST, TRAIL, TEMPTATION)
39:17 こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところにはいって来ました。
39:18 私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」
39:19 主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです。」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。
39:20 ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。
創世記39章21-23節
39:21 しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
39:22 それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。
39:23 監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。
メッセージの第3ポイントの聖書の言葉.<創世記 41:1-7>
1:二年の後、ファラオは夢を見た。ナイル川のほとりに立っていると、2. 突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。3. すると、その後から、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がって来て、岸辺にいる雌牛のそばに立った。4. そして、醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。ファラオは、そこで目が覚めた。5. ファラオがまた眠ると、再び夢を見た。今度は、太って、よく実った七つの穂が、一本の茎から出てきた。6. すると、その後から、実が入っていない、東風で干からびた七つの穂が生えてきて、7. 実の入っていない穂が、太って、実の入った七つの穂をのみ込んでしまった。ファラオは、そこで目が覚めた。それは夢であった。
<創世記 41:16>
16. ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」
<創世記 41:38>
38. そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」
<創世記 41:39-43>
39. パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。40. あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」41. パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」42. そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。43. そして、自分の第二の車に彼を乗せた。そこで人々は彼の前で「ひざまずけ。」と叫んだ。こうして彼にエジプト全土を支配させた。
創世記50章18-20節
50:18 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」
50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。
50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

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救いの証、北野実牧師 トーランスジュビリー教会(ATGOOD NEWS STATION)2009

僕は大阪で、クリスチャンホームに生まれ育ちました。我が家では、朝起きると最初に聖書を読むことが鉄則。多分、普通のご家庭ですと、朝起きて、テレビをつけたり、新聞を読んだりしますよね?僕の家では、朝聖書を読まないで新聞を広げたり、テレビをつけたりすると、母親の雷が落ちるのです。「神様の言葉を聴く前に、テレビをつけるなんて、いったいどういうこと!?」という風に・・。我が家には、「NO-BIBLE NO-BREAKFAST」という言葉があったくらい、とても厳しい家庭でした。でも、僕にとってキリスト教は、ただ毎週通うだけの教会(通わないと怒られるから)。ただの毎日教訓として読む聖書(読まないと怒るられるから)でした。つまり、自分にとっては単なる宗教・文化でしかありませんでした。そして僕は、中学生になったころからサッカー部の活動に夢中になり、日曜日はほとんど教会に行かなくなり、教会生活から段々遠のいて行きました。

 そんな僕に転機が訪れたのは中学三年生の時でした。その頃、父親はうつ病にかかっていました。当時僕は、うつ病のことが良く分からず、“お父さんは精神科医にかかっている”という認識しかありませんでした。父親はとても真面目な人で、ストレートな信仰の持ち主でした。一代目クリスチャンの父は長男で、祖父から先祖供養などの責任を負うように言われていたようでしたが、自分はクリスチャンなので、それは出来ないとはっきりと断り、それで財産相続が出来なくても、頑としてクリスチャンとしての行き方を変えない。そんな人でした。

 とにかく一徹な人でしたから、職場でもいろいろな葛藤があったようです。父は、神様の前にまっすぐであった分、世間からは融通の利かない人間だと評価されていました。父はある大学の事務局で働いていたのですが、そこで発生したちょっとした失敗にとても責任を感じ、自分を責め、悩むようになりました。僕が小学六年生の頃から父はうつ病になり、中学三年になった頃は、父は大分苦しい状態まで追い込まれていました。そんなある日、病院から疲れて帰ってきた時の父の表情を見て、「もしかして父は死んじゃうんじゃないか? 自殺するんじゃないか?」という不安がよぎりました。しかし、父は真面目なクリスチャンです。そんなはずはないと直ぐに思い直します。それから数日後の夕食の時に、僕は父にこう言いました。「お父さん、自殺なんかすると、すごく大変なんだって。自殺したら家族みんながすごく大変な思いをするんだよ」僕はただ、父親に自殺をしてほしくないが故に言ったつもりでした。ですが、その心の奥底には、「父親に自殺されてしまったら、自分の人生はどうなるのだろう? もう大学にも行けなくなってしまうじゃないか?」という、自分中心の思いがあったのです。

 その3日後の夜、病院から「お父さんが怪我をされたのですぐ来てください」という電話が家にありました。病院の方は詳しいことは何も話してくれず、母だけが病院へ向かいました。僕はその時、「父が死んだ」と直感的に感じました。翌朝、僕たちのことを心配して、夜中に駆けつけて下さっていた教会の人たちに私は起こされました。そこで、父親が自殺したことを聞かされたのです。僕は思いました。「僕のせいだ・・僕のあの言葉が父を殺したんだ。自分は取り返しのないことをしてしまった・・」僕は今までサッカー部で頑張りながら、勉強もしっかりとやる模範的な子供だと思っていました。しかし、その心の奥底には自分さえ良ければよいという自分に対する思いしかなかったのです。そんな僕が、父親を死に至らせてしまった。こんな僕は刑務所に行かなければならないと真剣に考えました。父親の自殺は、癒されようのない大きな痛みと、深い罪責感を僕に与えました。

 僕はそれ以来、「自分は人を傷付け、人を利用する悪い人間だ!だから人を傷つけるのが怖い。人に傷つけられるのも嫌だ」そう思って、絶えず人と距離を置いて付き合うようになりました。高校生になっても決して友人達と本音で接し合うことはありませんでした。だけど、本当は寂しくて仕方がなかったのです。「世の中にこんな自分を愛してくれる人などいるのだろうか? 何のために勉強しているのだろうか??」人生の目的を見出せず、人との出会いもなく、空しい風が吹く生活ってこんなことなのかなぁという毎日でした。そして、高校三年生の時、学校の先輩が、一緒に教会のキャンプに行かないかと声をかけてくださいました。僕は「教会主宰のキャンプなんて行きたくない!聖書なんて嘘だよ!」と思ったのですが、キャンプ場が“軽井沢”だったという言葉に魅力を感じ、軽井沢に遊びに行きたい!という一念でキャンプに参加する事にしました。僕の目的は、軽井沢のタレントショップで買い物して、軽井沢銀座で遊んで、東京の女子高生たちに会える!ただそれだけでした。

 そうしたらキャンプ場で、「北野君、君はイエス様のこと信じてるの?イエス様は君にとってどういう存在なの?」と、一人の伝道師の先生から声をかけられました。僕はクリスチャンホームに育っていますから、この手の質問には慣れています。「僕は、神様のことが科学で証明できたら信じたいって思っているんですけれど、なかなか信じられないんですよね~」と軽く交してやろうとこう言ったのですが、この先生は、高校で科学の教師をしておられる人でした。「北野君、僕も君のように科学的に神様の事を証明しようとしたけど、それで納得出来たとしても、それは頭で信じる信仰なんだよね。頭だけの信仰なら、何か大変なことがあったらすぐにやめちゃうでしょ。400年前、日本のクリスチャンは信仰の故に殺されたんだけど、もし、今そういう事になったら、北野君はすぐにやめちゃうでしょ。でも、心で信じたらやめないんだよ。北野君、どうせ信じるなら、命かけて信じてみなよ!」と。

 僕はこの言葉で、自分が今までの人生で、大切な問題をちゃんと考えていなかったことを恥ずかしいと思いました。それで僕は、「軽井沢で遊んでいる場合じゃない!」と思って、その日の礼拝に出席しました。その礼拝では、十字架の愛は条件がない!どんなに悪い人間でも、罪人でも、どんなことでも赦す神様だよ。君がハンサムでもなくても、君が勉強が出来ても出来なくても、変わらずに愛しているよ! 君は愛される価値があるんだとイエス様は言っているんだよ!!」そんなメッセージでした。それでも僕は、「本当かな? 僕にはお父さんの事があるんだ。それでも僕を愛してくれるのだろうか?」と考えていました。

 メッセージで一つの実話が話されました。韓国のソン・ヤンウォンと言う牧師さんのお話でした。ソン牧師はハンセン病の人達の為に教会を始め、“愛の原子爆弾”というあだ名がつけられているほど、愛に溢れた牧師でした。ところが、朝鮮動乱の時、二人の息子さんが共産党軍の兵士にリンチをされて殺されてしまったのです。その後、南韓国軍が盛り返し、韓国の地が回復したときに、ソン先生の息子さんを殺した兵士が捕まり、死刑の判決が下されました。しかし、ある人がやってきて、その犯人を無罪にして欲しいと申し出ました。その人とは誰あろう、彼に二人の息子を殺されたソン先生でした。

 「イエス・キリストは、あなたの敵を愛しなさい。と言われています。だから、赦さないといけません。彼を赦してやってください」とソン先生は韓国軍に懇願しました。人を何人も殺した殺人鬼を無罪には出来ないと、申し出は却下されたのですが、それでもソン先生は諦めないでこう訴え続けました。「彼を私の死んだ息子の変わりに養子にします。私がこれから、彼の人生に責任を持ちますから、どうぞ許してあげてください」そうしてソン先生は、自分の息子を殺した兵士を自分の養子として迎え入れたのでした。

 僕はそれがキリストの愛だと聞いて、「そんな愛だったら僕も信じたい!そんな愛を僕もほしい!そんな愛をもって僕も生きたい! そんな愛を持って生きるのなら、この世の中怖いものなんてないじゃないか!この愛の神様を信じたい!」と心の底から思いました。そして礼拝後すぐに牧師さんのところへ行き、「僕は本当に信じたいです」と言いました。そこで信じる祈りをしたら、今までただの文字に過ぎなかった聖書の言葉が、僕の中に温かく流れ込むようになりました。こんな体験は初めてでした。「こんなの初めてだ!映画みたいだ!」と思いました。それはまるで、今まで白黒の世界に生きていた僕の人生が、突然カラーの世界に変わって行くような、実にリアルな体験でした。「愛されるって気持ちいいなぁ~愛されるって自分を自由にするんだなぁ~」と思いました。そして神様に向かって黙想している時、父が死んで天国に行った時、イエス様が自分の手の傷跡を見せて、『お前の息子の罪のために、わたしは十字架で死んだ。だから、赦してあげてくれ』と言ってくださっている姿が浮かんで来ました。

 夏休みが終わって学校へ行くと、「自分はクリスチャンになった!」と僕は友人達にどんどん告げはじめました。周りの方が、「家がクリスチャンだからだろう」などと気を使いますが、僕は「いや、違うんだ。本当に信じたんだよ」周りからは、「お前どうしたの?」「最近北野は明るくなったね」などと言われました。それまでは、人と距離を置くようにしていたのに、イエス様を信じてから、全てが嬉しくて仕方がない。イエス様のことを皆に話したくてしょうがない!イエス様に愛されてるんだから、たとえ世界中が僕の敵になったとしても、イエス様の愛があるから大丈夫なんだ!と叫ぶほど、僕は変えられたのです。神様の子供になるということは、本当に素晴らしいことです。僕のこの世の父親は死んでしまいましたが、天の父なる神様は僕の霊的な父親として、僕の人生をいつも見守って下さっています。

 高校時代の僕には一つの悩みがありました。それは、お金がなくて大学には行けないんじゃないかと思っていたことです。ところが、指定校の大学に僕が推薦されるという、全く期待していなかったことが突然決まったのです。学費は親戚の方が出してくださるわ、保証人には教会の方がなってくださるわ、入試の時はたまたま出会ったクリスチャンの先輩に、「君の為に祈らせてください」と祈ってもらうわ・・・・。「神様の子供になるってすごいな!!!」それは、王様の子供になるってことは、王子になることなんだ!ということを実感させられた体験でした。今日、僕がこうやって生きているのは、僕が生きているのではなくて、僕のことを愛して、命を捨ててくださったイエス様を信じる信仰によって生きているんだと言うことを、心から告白したいと思います。

 最後に、今朝、こちらの教会にバスで来る途中、いつも使っているディボーションガイド「リビングライフ」を読んでいると、今日の箇所の中で「見よ」と言う言葉に目が留まり、主が僕に語ってくださいました。「僕ではなくて、神様がしてくださった素晴らしいことを観る者として下さい。そして、疲れた者に、あなたを必要な者に、僕のぼろぼろの人生を、最高の人生に変えてくださった神様のことを伝えさせてください!」と祈りました。僕は神様の証しを何度となくしていますが、何度話しても感動があります。神様が僕を愛してくださっている!神様は僕を王なる子供として生かしてくださっている。「お前は最高に幸せに生きるんだ。お前の人生をわたしが計画している。わたしの恵みを最高に享受して、人生をエンジョイしなさい!」と、神様は僕にそう言ってくださっています。その神様の素晴らしさを証し出来る恵みを心から感謝し、全ての栄光を神様にお返し致します。本当にありがとうございました。(筆記/Ako) 【
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

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