神様の救出計画を勇気を持って実行する
士師記3;15,27(12-31)今日は二番目の士師である左利きのエフデと言う人が出てきます。中近東では「左利き」というと、特別な意味か、珍しいか、あまり良くない意味で使われていると聞きます。その彼が主なる神様の前に悪を行ったことから18年間モアブ(ロトの子孫)に支配されたところから救助をします。18年間とは長い期間です。一人の子が音になる期間です。そこで、思ったことは偶像を礼拝するものは、仕える者は、罪を犯すものは逆に罪に知らないうちに支配される、逆に奴隷になる、ということです。エジプトから脱出して奴隷から解放されたのに、この約束の地で奴隷になりました。クリスチャンも神様の救いを受けて、新しい生活に入っても、罪のために逆に奴隷に戻る可能性があります。楽しい、快楽など目の前にあってもそこに誘惑されるなら、知らないうちに奴隷の生活になります。私は自由なクリスチャンでしょうか?その罪の結果の刈り取りは大きなものがあります。また、左利きのエフデですが、モアブの王様に貢物を納めるポジションにいました。間違いなく有力者か、でなくては国への裏切り者であったかもしれません。しかし、分かりませんが、そんな彼に神様の召しが会った時に勇気を持って王を殺し、人々に神様のビジョンを宣言し、人々を集め、実に今度は80年の祝福(神様の祝福ってすごいですね、奴隷は18年だったのに)を一人の神様のリーダーのためにもたられされたのです。今朝の私の黙想、適用は①私の打つべきモアブは、罪は何か?②勇気を持って倒すべき敵は、乗り越えるべきものは何か?③神様のビジョンを宣言して人々を集めることは何か?④リーダーシップもって仕えることは何か?⑤宣言するべきビジョンは何か?です。勇気を持って今日を過ごし、出会う人々に主の恵み、救いを語りますラベル: 士師
主のTRIALのときに勝利は主が立てる人によりくる
士師記3;4節(QT本文1-11)主なる神様が戦いを知らない世代に、神様の命令に聞き従うかどうか?試み、知るために「残されたカナンの民がいた」とあります。何故でしょうか?そのようなことをされたのでしょうか?本当なら、主に従って戦うなら、主がカナンの民を追い出してくださったはずなのです。しかし、信仰を持って彼らは出ようとしませんでした。そこで、神様のイスラエルへの、クリスチャンへのTEST2とTRIALが始まります。やはり、イスラエルの民はどうかしてはいけないカナンの文化、民と結婚をして、簡単に偶像礼拝、偶像に仕えることが始まります。私たちは、私はどうでしょうか?交わってはいけないラインを妥協していないでしょうか?簡単に入れてはいけない世の中の(悪い意味の)文化を自分の大事なところに入れてしまい、影響を受けて、気がついたら大変なことになった、ということはないでしょうか?この朝、私自身確認したいと思います。また、その中でイスラエルの民たちが叫び求めると「救う救助者、オテニエル」を起こした、とあります。その前にイスラエルの民が罪を犯した時に、「売り渡された」という表現があります、REDEEMERなる神様(贖い主)が売り渡す、という表現に驚きました。それでも、主は叫び求めると救う救助者を起こしてくださいます。私たちをもう一度贖いだしてくださいます。今日、主のTRIALに神様の救いを信じて応えて生きます。ラベル: 士師
主を知るとは?!
士師記2;10「その 同世代の 者もみな, その 先祖のもとに 集められたが, 彼らのあとに, 主を 知らず, また,主がイスラエルのためにされたわざも 知らないほかの世代が起こった.」 (QT聖書本文1-10)ヨシュアとヨシュアと一緒にいた長老たち(7節:主がイスラエルのためになされた大きなみわざをみた)が生きている間は、イスラエルは主に仕えました。しかし、彼らの後、主を知らず、主がなされたみわざを知らない人々が起こった、とあります。主を知らないとはどういうことでしょうか?神様を知らない、ということでしょうか?まったく信じていない、とか聞いてもいないということでしょうか?黙想しました。私は神様を唯一の私の主としない、と言うことでないか?と思いました。それは、人生の主人である神様以外に、快楽や自分の楽しみ、自分の力や他に頼るものを作ることでないか?と思いました。文字通りに神様を知らないわけがありません。聞いたはずですし、ヨシュア記でも、子孫のために信仰の記念碑を作っています。私にとって、主なる神様を知ること、主なる神様がイスラエルのために奇跡をなされたことを見たことがない、とはどういうことでしょうか?それは、人生の主人なる神様をお迎えしていないことです。また、その神様を次世代が人生の中で体験するように教え、伝え、証しすることです。主を知るとは、私の人生の主人であること、その方が私の人生の全てを満たし、奇跡をなされ、大きなみわざを体験することです。主を知る一日を体験していきます。義人は信仰によって生きる。神様の力、十字架によって歩んでいきます。主よ、導いてください。ラベル: 士師
不純物と同居していないか?
士師1;30(QT聖書箇所22-36節)ヨシュアの死後、イスラエルの民は約束の地をとり
に行きます。しかし、今日の聖書箇所では、ユダ部族以外のイスラエルの部族(エフライム、ゼブルン、ナフタリ、アシュルン)はカナンの民族を征服できず、彼らが住み通したり、彼らを苦役に服させても、カナンの民が残ることが起こります。ダンにいたっては彼らに圧迫されて山地へ追いやれます。何故、彼らは聖絶したり、他部族と協力してカナンの民を追い出せなかったのでしょう。また、追い出さず、聖絶しなかったことの結果は何でしょう?それは、イスラエルの民は受けてはいけない世の中の文化を受けて堕落したり、カナンの宗教の影響を受けて子供をささげたり、性的な堕落へ(アシュルなど、豊穣を意味する偶像の神殿では性的な堕落をもってきました)性の乱れは、生き方の乱れをもってきます。聖地旅行の中で偶像礼拝の危険さ、またそこへ神様の裁きをレクチャーを受けました。また、社会的、国家的にもイスラエルは支配されたり、攻撃され続ける影響を受けるようになります。時間が掛かっても、たとえ、現実的に難しくても、カナンの支配を追い出さないといけなかったのです。罪を不純物を除去しないといけなかったのです。そうでないと最終的に大変なことになるのです。今日、私が受けるべき霊的な教訓は何でしょうか?それは、私の中の不純物を同居しているのものを除去しろ、ということです。日ごとに追い出さないとすぐに影響を受けて、知らないうちに占拠されてしまいます。これくらいいいじゃないか?仕方ないじゃない、という誘惑があります。今日、主の助けをもらって不純物、人への人間な依存、罪を除去していきます。主イエス・キリストの十字架を見上げていきます。ラベル: 士師